党勢拡大運動の変遷から見た日本共産党史(1980年代~2000年代初頭)、志位委員長はこの危機を打開できるか(その5)、岸田内閣と野党共闘(64)

1960年代と70年代が〝大衆的前衛党〟の建設が進んだ「躍進の時代」だったとすれば、不破書記局長が〝百万の党〟を標榜した80年代から90年代にかけては、党勢拡大に急ブレーキがかかった時代だった。60~70年代は党勢拡大が計画的に進展したが、80年代に入ると次期党大会に向けて設定した拡大目標が達成できなくなり、「特別拡大月間」を設けて集中的に拡大行動を展開して、漸く辻褄を合わせることが常態化するようになった。党勢のピークは、80年代初頭の党員48万人と赤旗読者355万人である。それ以降は漸減傾向が続き、2000年代初頭には党員38万6千人、赤旗読者199万人余に後退した。1970年代後半に提起された「五十万の党、四百万の読者」の拡大目標は、その後も達成されることのない「永遠の課題」になったのである。

 

その背景には、社共両党の分裂に伴う革新自治体の消滅、「社公合意」に基づく社公民連合の成立、反共・労使協調路線に立つ「連合」の結成といった国内情勢の激変に加えて、中国天安門事件における青年・学生運動の武力弾圧、ソ連・東欧における共産独裁政権の崩壊など、社会主義体制の根本を揺るがす世界史的な大変動が発生していた。若者世代はもとより広範な革新無党派層の中にも社会主義体制への激しい幻滅と失望が広がり、それらとは一線を画して「自主独立路線」を標榜している共産党に対しても、社会の激しい逆風が吹き荒れるようになったのである。

 

とりわけ、これまで社会主義の理想を信じて政治運動に参加してきた若者世代にとっては、天安門事件の勃発やソ連・東欧の崩壊は〝青天の霹靂〟ともいうべき大事件だった。共産党の党勢拡大の源泉だった民青同盟は、80年代の22万人をピークに90年代には一気に2万人にまで激減し、組織崩壊に近い状態に陥った(小林哲夫著『平成・令和学生たちの社会運動』光文社新書、2021年)。ソ連・東欧の共産独裁政権と日本共産党が二重写しとなって増幅され、爆発的な「民青離れ}が起こったのである。

 

この事態に対して共産党はどう対応したのであろうか。党大会では民青同盟の活性化は毎回重要課題として取り上げられるものの、正確な実態をもとづく報告や議論はほとんど見られない。激減している民青同盟の動向を分析することは、激しい反共攻撃の中においても党勢を維持していることを強調する大会決議にそぐわず、「水を差す」ものとして見送られたのであろう。また、八十年史や百年史においても、この時期の民青の動向に関する記述は見当たらない。だが、この事態を放置したことは、その後の党組織の高齢化と衰退を加速させる最大原因となり、党組織の存続に関わる深刻な問題へと発展していくのである。

 

この時期はまた、「連合」を中心とした反共労働戦線の統一が進み、企業内労働組合からの共産党攻撃と排除が一段と強まった時期でもあった。「社会党1党支持」の方針を掲げながらも、春闘を通して組織労働者の賃上げを推進してきた総評が、右傾化にともなって80年代末には民社党系の同盟に吸収され、「連合=たたかわないナショナルセンター」に変貌した。それ以降、日本の労働者賃金は30年間にわたって低迷し、スト一つ打てない労組活動が標準仕様となった。もともと日本共産党は、プロレタリアートの前衛党を標榜しつつも基幹的な労働者を掌握できていなかった。総評傘下で影響力を持ったのは、公共セクターや民間の中小単産が中心であり、イタリア共産党がCGIL、フランス共産党がCGTというそれぞれの国の最大のナショナルセンターを支配下に置いたのとは対照的だった(朝日新聞社編『日本共産党』1973年)(中北浩爾著『日本共産党、〈革命〉を夢見た100年』中公新書、2022年)。

 

90年代後半に「自社さ連立政権」が崩壊し、国政選挙では社会党支持票が共産党に大きく流れるという「社会党離れ」現象が起こった。百年史はこの時期を「第2の躍進」と称しているが、「党の政治的影響力の急拡大に、党の実力が追い付いていないという問題がありました」とあるように、それは共産党自身の党勢拡大の結果によるものではなく、革新浮動票が一時的に(雨宿り的に)に寄せられたものにすぎなかった。そして大雨が止むと「雨宿り」もなくなり、党勢拡大は「大きな壁」に直面することになるのである。

 

しかし、第16回党大会における不破書記局長の中央委員会報告にもみられるように、国際共産主義運動において早くから「自主独立路線」を貫いてきた日本共産党は、社会主義体制の崩壊に対しても動揺することもなく、従来方針を変えることもなかった。そこでは、党中央(指導部)が「民主集中制」の組織原則によって党内を掌握し、共産党が大衆的イニシアティブを発揮すれば、事態を打開できるとの楽観的見方が支配的だった。政治路線が理論的に正しければ、社会も(いずれは)付いてくるとの「前衛党」意識が濃厚であり、その結果、国内外情勢の歴史的大変動にもかかわらず党勢拡大運動はそのまま継続され、共産党と社会とのギャップはますます大きくなっていったのである。

 

〇第16回党大会(1982年7月、不破書記局長の中央委員会報告)

――私は、ここで20年間の理論活動の総活をおこなうつもりはありませんが、わが党が科学的社会主義の原則にもとづいて展開してきた一連の理論的提起のなかには、今日、国内だけではなく国際的にひろく注目されているものも少なくないことを指摘しておきたいと思います。とくに発達した資本主義国における革命の段階的発展と反帝独立の任務の戦略的意義の問題、人民的議会主義の理論的・歴史的な基礎づけ、社会民主主義政党論および統一戦線論、アメリカ帝国主義の各個撃破政策の解明、中国の「文化大革命」の実態と路線の本質を突いた批判、民族自決権の一貫した擁護、領土問題の原則的解明、社会主義と「三つの自由」の問題、プロレタリアート執権の問題、科学的社会主義の呼称問題、多数者革命論、社会主義の生成期論、党の民主集中制と分派主義批判の問題、真の平和綱領の提起、大国主義・覇権主義への歴史的・理論的批判などは、国際的にも意義をもつ論点であります。

 

〇第18回党大会(1987年11月、大会決議)

――党建設の分野でのわが党の活動は、わが党が国際的舞台、日本の現実政治や大衆運動の面で果たしている役割にくらべてみると、遅れがあることを率直に指摘しなければならない。1977年に開かれた第14回党大会が「五十万以上の党」の建設を提起したが、第17回党大会後もこの課題が達成されず、逆に後退し、機関紙拡大では最高時の350万から少なからず後退し、1973年の第12回党大会が決定した「四百万以上の読者」の達成には、まだかなりの距離を残している。党はこの遅れを取り戻すため。第18回党大会に向けて「党勢拡大(党員、機関紙)全党運動」を設定し、名実ともに五十万を超える党、機関紙読者の最高時突破を目標とする運動を展開した。しかし、「全党運動」の目標とした「名実ともに50万党員」は未達成となった。機関紙拡大では、「月間」および全党運動を通じて47万人以上の読者を増やし、全党的には日刊紙、日曜版とも第17回大会水準を超えて前進しているが、過去最高時の峰を突破するという「全党運動」目標は未達成となった。

 

〇第20回党大会(1994年7月、不破委員長の中央委員会報告)

――この10ケ月でみて、増紙の累計は46万、減紙の累計が39万であり、その差し引きで7万人の読者増という結果であります。もちろん拡大の絶対数がまだまだ足りないという問題もありますが、同時にこの結果は、購読継続、減紙防止の活動がいかに大切かを教えています。減紙数をたとえ2~3割減らしただけでも、7万人という読者数が2倍、3倍となる可能性があるわけであります。

――1990年11月の第2回中央委員会総会で、実態のない党員の問題の正しい解決に勇気をもってあたるという問題を提起しました。その結果、現在の党員は約36万人となっています。実態のない党員の問題が基本的にはかられたことは、前衛党らしい党の質的水準をたかめるうえで重要な前進でありました。同時に、ソ連・東欧の崩壊などの急激な情勢の変化を科学的につかみきれずに、落後していったものが一部に生まれました。こうした現状をふまえて、いまこそ党員拡大を本格的前進の軌道にのせていく必要があります。

 

〇第21回党大会(1997年9月、大会決議)

――第20回党大会以来の3年余りのたたかいは、日本共産党の新しい躍進の時代を切り開くものとなった。国政選挙では、1995年の参議院選挙で改選5議席から8議席に躍進したのにつづいて、1996年の総選挙で15議席から26議席への躍進をかちとった。総選挙で獲得した726万票、13.08%の得票率は、わが党が1970年代に到達した峰をはるかに超える史上最高の峰への歴史的躍進である。1995年に行われた地方選挙で、東京都議会選挙では13議席から26議席へと議席を倍増させ、自民党につぐ都議会第2党の地歩を占めたことは、都政の未来にとってのみならず国政にも衝撃的影響をあたえる素晴らしい成果であった。この新しい躍進の流れは、一時的なものでも偶然のものでもない。国政でも地方政治でも日本共産党以外のすべての党が自民党政治に吸収され、〝総自民党化〟政治ともいうべき政界の構造がつくられていることに根ざした変化である。無党派層の増大は、〝総自民党化〟した政治に対する国民の幻滅と拒否を反映したものである。これらの人びとの向いている方向は、さまざまな模索をともないながらも、全体として日本共産党と立場を共有しうるものである。

――昨年12月の第6回中央委員会総会では、「少なくとも総選挙の得票の1割の党員を、得票の半分の読者を」という目標をもって全党的に取り組むこと、党機関の「総合計画」や支部の「政策と計画」のなかにも、この大きな展望にたって党勢拡大を位置付けることを決定した。第21回党大会から遅くとも3年以内に次の総選挙が行われる。また、2年から3年以内に第22回党大会を開催することになる。3年以内というのは、今世紀中ということでもある。「得票の1割の党員、半数の読者」という目標を遅くとも今世紀中に達成し、現在37万人の2倍の党員、230万余の1.5倍の読者をもって来世紀をむかえることを全党によびかける。

 

〇第22回党大会(2000年11月、大会決議)

――政治的影響力の広がりに対して、党の組織の実力がいかに遅れているかは、90年代の10年間――90年から現在までの党勢の推移をみると歴然とする。党勢の根幹である党員数は、90年に48万人だったのが、94年の第22回党大会時には36万人にまで後退した。その後、持続的拡大の努力がはかられ、後退傾向を脱して前進がはじまっているが、現在の党員数は38万6517人である。赤旗読者数は、90年に286万人だったのが、現在199万人余になっている。日刊紙読者は、54万人から35万人余である。

――90年代の10年間は、日本共産党が政治的影響力を全体として前進させた10年間だったが、組織の実力はそれに追いつかず、立ち遅れと逆行の傾向が克服できていない。わが党は、国政選挙で700万人から800万人という人びとの支持を得ているが、日常の活動によって組織的に結びついている人々はその一部分である。その矛盾は、総選挙での後退にも大きくあらわれた。

――こうした党勢後退の原因には、客観的条件と主体的とりくみの両面がある。客観的条件では、戦後第2の反動攻勢、東欧・ソ連の崩壊という世界的激動のもとでの逆風がある。この逆風は党建設に重大な困難をもたらしたが、そのもとでも基本的にわが党がその陣営をもちこたえたことの意義は極めて大きい。主体的とりくみでは、党員拡大の自覚的追求の軽視という弱点があった。その弱さを生んだ一つの要因には、方針上の不正確さもあった。わが党が、草の根で国民と結びつく党組織をもっていることは、他党にない大きな財産である。しかし、民主的政権を展望したときに、党建設の立ち遅れがわが党の活動の中の最大の弱点となっていることは明らかである。その克服のために、全党が知恵と力をつくそうではないか。

――党建設・党勢拡大の根幹は党員拡大である。一時期の党の方針の中で「党員拡大と機関紙拡大が党勢拡大の二つの根幹」とされていたことがあったが、これは正確ではなかった。機関紙活動――読者の拡大、日々の配達・集金、読者との結びつきなどを担っている根本の力もまた党員であって、この力を大きくする努力が足りなければ、機関紙活動の発展もあり得ない。80年代半ばから約10年間にわたって、党員拡大の自覚的な取り組みは全党的に弱まった。とりわけ、21世紀の担い手である青年・学生のなかでの党建設に遅れと空白が作られていることは重大である。第22回党大会として、2005年までに過去最高の峰を超える五十万の党を建設することを目標にする「党員拡大五カ年計画」をたて、計画的・系統的にこれを達成する取り組みを行うことを全党に呼びかけるものである。(つづく)