党勢拡大運動から見た日本共産党史(1960年代~80年代初頭)、志位委員長はこの危機を打開できるか(その3)、岸田内閣と野党共闘(62)

 前々回の拙ブログで、日本共産党百年史のむすびが「党の政治的影響力は、党づくりで飛躍的前進を開始した1960年代に比べるならばはるかに大きくなっています。全党のたゆまぬ努力によって、1万7千の支部、約26万人の党員、約90万のしんぶん赤旗読者、約2400人の地方議員を擁し、他党の追随を許さない草の根の力にささえられた党となっています」と強調しながら、その一方で「全国各地で奮闘が続けられてきたものの、党はなお長期にわたる党勢の後退から前進に転ずることに成功していません。ここに党の最大の弱点があり、党の現状は、いま抜本的な前進に転じなければ情勢が求める任務を果たせなくなる危機に直面しています」と言わざるを得なかった矛盾を指摘した。

 

 志位委員長就任後の20年というものは、党員が40万人から26万人に、赤旗読者が200万人から90万人に、国政選挙では衆院選比例得票数が671万9千票(得票率11.2%、2000年6月)から416万6千票(得票率7.2%、2021年10月)に、いずれも半数前後に減少するという〝歴史的後退〟が生じた20年だった。しかも、それが現在なお「進行中」というのだから、事態は極めて重大な状況にあると言わなければならない。この状況はまた、百年史のいう「党の政治的影響力は1960年代にくらべてはるかに大きくなっている」という記述にも大きな疑問を投げかける。

 

『日本共産党の五十年』(五十年史、1972年8月)は、70年代初頭の政治情勢を「日本共産党は半世紀にわたる不屈の活動の結実として、今日、約30万の党員と2百数十万の機関紙読者、500万近い党支持者をもち、日本人民の闘争と現実政治に重要な役割を果たす党に成長した」と述べている。百年史も「1970年7月当時の党員は28万2千人、機関紙読者は176万8千人」と記している。したがって現在の党勢は、20年前はおろか50年前と比べても党員で2万人余、機関紙読者で90万人弱の後退となり、国政選挙においても1972年衆院選と2021年衆院選とでは563万千票と416万6千票で147万票も減少していることになる。これがどうして「党の政治的影響力は、党づくりで飛躍的前進を開始した1960年代に比べるならばはるかに大きくなっています」といえるのか――、不思議でならない。

 

だが、党勢の〝歴史的後退〟はある日突然起こった現象ではなく、長期にわたる党活動とりわけ党勢拡大運動の帰結であることを忘れてはならないだろう。百年史といった党史の編纂は、短期的総括では見えてこない(長期にわたる)構造問題を摘出することにこそ意味があるのであって、単に時代を区切ってその間の出来事を並べるだけのことではないはずだ。拙ブログでは、百年史には書かれていない党勢拡大運動の変遷をたどりながら、その帰結が今日の〝歴史的後退〟につながっていないかどうかを検討してみたい。

 

1960年代から80年代初頭にかけての20年余の党勢拡大方針を概観すると、1961年に「当面の課題」として提起された〝数十万の大衆的前衛党〟の建設がそれに近い成果を挙げ、その上に立って、70年代後半には〝百万の党〟の建設を展望しつつ、当面「五十万の党、四百万の読者」を実現するという課題が新たに提起された――とのストーリーが展開されている。

 

〇第8回党大会(1961年7月、宮本書記長の政治報告)

――当面の課題として、数十万の大衆的前衛党を作り上げる任務を全党の前に提起し、「党が綱領のしめす人民の民主主義革命の方向に向かって、人民の諸闘争を発展させ、統一戦線に結集するために奮闘し、そのなかで意識的、計画的に党の拡大、強化に取り組むならば、党を引き続き拡大、強化し、数十万の強大な党を比較的短い年月のうちに建設することは可能である」と述べた。

 

〇第10回党大会(1966年10月、宮本書記長の中央委員会報告)

――現在大多数の細胞が政策と計画を持ち、全党員が任務を分担して、細胞が全体として自覚的、総合的に活動する党活動が全党に次第に定着し始めていることは、党が急激に拡大強化したいま、とくに重要な意義を持っており、それは今後ますます重要になっている。

――この間の全国集計が、党員1.8倍、本紙1.7倍、日曜版1.9倍となったことは、2カ年計画目標の集約からはいくらか低いが、全体として第9回党大会決定をやりとげたことであり、偉大な成果である。党は、今日、30万近い党員と百数十万の機関紙読者をもち、党史上最大の組織勢力となった。

 

〇第11回党大会(1970年7月、不破書記局長の中央委員会報告)

――党員が30万になり、機関紙読者が200万近くになった現在では、党勢拡大運動の任務は、当然新しい積極的拡大に立ち向かうと同時に、党員では未結集者をつくらないということであり、また読者については減紙対策に万全を尽くすということがこの期間中の新しい切実な教訓です。いわゆる12条該当党員は1967年と今年4月を比べて5.1%減るなど、全党員の中での比重を低めておりますが、まだまだ重要問題であります。

――なお現在、党員の構成は、現場の労働者、事務労働者などをあわせて59%、その他は農民、勤労市民、学生などの勤労人民であります。党員の年齢構成は、18歳から30歳までが54%、31歳から50歳までが40%で、90%以上が青壮年であります。そして婦人党員の比率は年々高まって、今日では31.7%に達しています。

 

〇第12回党大会(1973年11月、大会決議、不破書記局長の中央委員会報告)

――わが党は、昨年、党創立五十周年を迎え、過去の不屈の歴史を踏まえ、新しい半世紀への第一歩を踏み出したが、この3年間の党建設は第11回党大会が提起した目標と課題に基づき、「量とともに質を」のスローガンを掲げた全党の活動」によって、この歴史的な時期にふさわしい前進と成果をかちとった。党は第12回党大会を党員30数万、党機関紙の読者は100万以上増加して280数万という党史上最大の組織勢力をもってむかえた(大会決議)。

――われわれは、70年代の歴史的任務を日本人民の先頭に立ってやりとげる党という基準にてらして、党勢拡大の目標を展望し、まさに70年代にふさわしい高い意気込みをもって今後の前進に取り組む必要があります。この点で「決議案」は、第13回党大会までに達成すべき3カ年計画の目標として、党員40万以上、「赤旗」読者400万以上という目標を全党の前に提起しました。「決議案」の発表後、これは少なすぎる、40万の党員と400万の読者で民主連合政府ができると思うのか、という意見がずいぶん党中央に寄せられましたが、党中央委員会としては、これは大変うれしい激励の意見でした(中央委員会報告)。

 

〇第15回党大会(1980年2月、大会決議、不破書記局長の結語)

――60年代初頭の4万2千余の党員、10万余の機関紙読者から、60年代を通じて28万余の党員、180万の読者へ(70年代初頭)、さらに70年代を通じて今日の44万の党員、355万を超える読者へ――これが、この20年来の党勢拡大の大まかな足取りである。第14回大会決定は、百万の党の建設を展望しつつ、当面「五十万の党、四百万の読者」の実現という課題を提起した。しかし、第14回党大会決定の目標が達成されなかったことは重大である(大会決議)。

-―私たちはこの活動を大会どまりにせず、ひきつづきこれに取り組んで、中央委員会報告で提起した年内に「五十万の党員、四百万の読者」の目標を必ずやりとげるために奮闘する必要があります。そして80年代には、わが党が戦後、党の再建以来目標としてきた「百万の党」の建設を必ずやりとげなければなりません。「百万の党」とは決して手の届かない、遠い目標ではありません。日本の人口は1億1千万、「百万の党」といえば、人口比で1%弱の党員であります。私たちは、大都市はもちろん遅れたといわれる農村でも、少なくとも人口の1%を超える党組織をもち、こうして全国に「百万の党」をつくりあげることは、必ずできる目標だということに深い確信をもつわけであります(結語)。

 

〇第16回党大会(1982年7月、不破書記局長の中央委員会報告)

――1960年代初頭、党員8万8千、赤旗読者34万余でした。1970年代初頭、第11回党大会(1970年)を迎えたときは、党員は3倍の約28万、読者は5倍の176万余へと大きな発展を遂げました。第16回党大会を迎えた時点では、わが党はさらにこの党勢を大きく拡大して、党員約48万、赤旗読者3百数十万というところに到達しました。機関紙の読者数でのわが党の機関紙活動のこの到達点は、文字通り世界の資本主義諸国の共産党の中で最高の記録であります。

――わが党の政治的力量についていえば、第8回党大会当時、党の国会議員は6名、地方自治体議員は818名でした。それが第11回党大会の時点では、国会議員21名、地方議員1680名となり、さらに現時点では、80年の同時選挙で少なからぬ国会議席を失ったとはいえ、国会議員41名、地方議員3653名をもつところまで前進してきました。わが党が与党となっているいわゆる革新自治体も第8回党大会当時の14自治体、人口706万から第11回党大会時点の91自治体、人口1830万へ、そして今日の200自治体、人口3400万へと大きく前進と拡大を記録しています。

――このように、この20余年間のわが党の歴史をさまざまな波乱や曲折をふくめ、大きく総活してみるならば、党綱領と自主路線を確定して以来、日本共産党が大局的には前進と発展の軌道を歩み、国際的にも国内的にも有力な党への成長をとげてきたことは、数字的にも明らかであります。

 

1960年代から70年代にかけては、ベトナム反戦運動に代表される反戦平和運動が燎原の火の如く全国に広がり、革新勢力の統一行動が発展し、共産党がその一翼としてクローズアップされた時期だった。この頃はまた、高度経済成長政策の進行にともなう公害問題や都市問題などが激化し、全国各地で住民運動が頻発して革新自治体運動が急速に発展した時期だった。共産党は住民運動の先頭に立ってたたかい、革新自治体の与党として住民要求実現のために奮闘した。そのことが、ソ連の引き起こしたハンガー事件やチェコ侵略などによる社会主義体制の国際的なイメージダウンにもかかわらず、青年労働者や学生など若い世代が大量に入党した背景となっている。

 

共産党はこの間、党員の90%を青壮年層が占めるという若い組織が原動力となって飛躍的な発展を遂げた。『日本共産党の五十年』には、「民主青年同盟もひきつづき大きな発展をとげ、1969年11月の民青同盟第11回大会までに、1960年当時の4倍にも上る約20万の青年を結集する組織に発展し、青年・学生運動の中心的な存在となった」と記されている。民青同盟から共産党へという「党勢拡大ルート」が確立され、青年・学生運動の発展とともに党建設が進むという党勢拡大の好循環経路が形成された。「数十万の強大な党を比較的短い年月のうちに建設することは可能である」と提起された〝大衆的前衛党〟の建設方針は、次第に実現に近づきつつあったのである。

 

このことを象徴するのが、80年代冒頭の第15回党大会における不破書記局長の過激な結語であろう。不破氏は「60年代初頭の4万2千余の党員、10万余の機関紙読者から、60年代を通じて28万余の党員、180万の読者へ(70年代初頭)、さらに70年代を通じて今日の44万の党員、355万を超える読者へ――これが、この20年来の党勢拡大の大まかな足取りである。第14回大会決定は、〈百万の党〉の建設を展望しつつ、当面〈五十万の党、四百万の読者〉の実現という課題を提起した」「そして80年代には、わが党が戦後、党の再建以来目標としてきた〈百万の党〉の建設を必ずやりとげなければなりません。〈百万の党〉とは決して手の届かない、遠い目標ではありません。日本の人口は1億1千万、〈百万の党〉といえば、人口比で1%弱の党員であります。私たちは、大都市はもちろん遅れたといわれる農村でも、少なくとも人口の1%を超える党組織をもち、こうして全国に〈百万の党〉をつくりあげることは、必ずできる目標だということに深い確信をもつわけであります」と強調したのである。

 

しかし、人口比約1%に当たる〝百万の党〟の建設が、「党再建以来の目標」として掲げられてきたという事実は確認できないし、またそれが「必ずできる目標」だとする確かな根拠も示されていない。不破氏は、著書『現代日本における大衆的前衛党』(新日本出版社、1998年)の中で、「日本共産党は、70年代の躍進の時期に『百万の党』の実現を大きな目標として提起しました(1977年・第14回党大会の決定)」と述べているように、百万の党が「党再建以来の目標」だったとの結語は明らかにミスリードというべきであろう。

 

また、たとえ不破氏個人がそう確信していたとしても、百万の党の目標が大会議題として議論が尽くされたという形跡は見つからないし、ただ「結語」として述べられているにすぎない。不破書記局長の結語は、いわば党勢拡大運動を鼓舞するための一種の「アジテーション」(扇動)や「プロパガンダ」(政治宣伝)のようなものであって、内実をともなった提起とは言えなかった。そして、このような現実から遊離した方針が、これ以後「大会決定」として独り歩きするようになると、党勢拡大方針は次第に空文化していくようになるのである。(つづく)