日本共産党は〝志位体制〟を固守してこのまま衰退の道を歩むのか、それとも刷新して再生の道を見出すのか、いまその分岐点に立っている(その1)、岸田内閣と野党共闘(66)

 日本共産党百年史の際立った特徴は、〝党勢拡大〟がその根幹に据えられていることだ。党勢拡大の意義と重要性は、(1)日本の民主主義革命ひいては社会主義革命を達成するためには、何よりも党の〝自力〟をつけなければならない、(2)「革命政党」としての〝自力〟は、党員と機関紙読者の数で規定される、(3)〝自力〟の大小、すなわち党員と機関紙読者の多寡が国政選挙・地方選挙の勝敗を分ける――との三段論法で位置付けられている。ここでは、世論調査における政党支持率や政党好感度などの要素は一切考慮されていないし、無党派層の動向についても関心の外である。

 

 このような組織体質は、「政治は数」「数は力」という政治力学を反映したものであり、少数政党は政治的、社会的影響力を行使できないという冷厳な現実に裏打ちされている。政治世界の厳しい現実が共産党を党勢拡大に駆り立て、過去3回の「党勢躍進=成功体験」がそれを証明しているというわけである。なかでも「第1の躍進時代=1960~70年代」の党勢拡大は、国政選挙と地方選挙の得票数・得票率の大幅な増大をもたらし、飛躍的な議席増につながっただけに、党勢拡大がその後〝不磨の法則〟として神格化される一大契機になった。それを象徴するのが、第16回党大会(1982年)における不破書記局長の中央委員会報告である。

 

――1960年代初頭、党員8万8千、赤旗読者34万余でした。1970年代初頭、第11回党大会(1970年)を迎えたときは、党員は3倍の約28万、読者は5倍の176万余へと大きな発展を遂げました。第16回党大会を迎えた時点では、わが党はさらにこの党勢を大きく拡大して、党員約48万、赤旗読者3百数十万というところに到達しました。機関紙の読者数でのわが党の機関紙活動のこの到達点は、文字通り世界の資本主義諸国の共産党の中で最高の記録であります。

――わが党の政治的力量についていえば、第8回党大会当時、党の国会議員は6名、地方自治体議員は818名でした。それが第11回党大会の時点では、国会議員21名、地方議員1680名となり、さらに現時点では、80年の同時選挙で少なからぬ国会議席を失ったとはいえ、国会議員41名、地方議員3653名をもつところまで前進してきました。わが党が与党となっているいわゆる革新自治体も第8回党大会当時の14自治体、人口706万から第11回党大会時点の91自治体、人口1830万へ、そして今日の200自治体、人口3400万へと大きく前進と拡大を記録しています。

――このように、この20余年間のわが党の歴史をさまざまな波乱や曲折をふくめ、大きく総活してみるならば、党綱領と自主路線を確定して以来、日本共産党が大局的には前進と発展の軌道を歩み、国際的にも国内的にも有力な党への成長をとげてきたことは、数字的にも明らかであります。

 

 当時は、集団的・組織的な「革新統一戦線」の推進が〝大義〟であり、個人やグループ中心の「市民社会論=市民主義」は〝異端〟の理論だと見なされていた。要求を実現し、政治改革を進めるためには労働組合や政党に加入することが大前提であり、個人やグループではおよそ不可能だと考えられていた。青年は入学すれば学生自治会に参加し、就職すれば労働組合に加入することがごく普通のこととされていた。個人と組織・集団との関係は親和的であり、必ずしも矛盾するものとは捉えられていなかった。そして、共産党や社会党などの革新政党がその延長線上の「受け皿」になり、時代の風に乗って飛躍的な成長を遂げたのである。

 

 ところが、志位体制のもとで編纂された百年史(2023年)の「むすび」は、一転して悲観的論調に変化している。党現勢は1万7千の支部、26万人の党員、90万人の赤旗読者、2400人の地方議員となり、しかも「党はなお長期にわたる党勢の後退から前進に転ずることに成功していません。ここに党の最大の弱点があり、党の現状は、いま抜本的な前進に転じなければ情勢が求める任務を果たせなくなる危機に直面しています」というのである。20世紀末から21世紀初頭にかけて、党員は実に48万人から26万人へ(4割減)、赤旗読者は3百数十万人から90万人へ(8割減)、地方議員は3600人から2400人へ(4割減)、それぞれ減少するという由々しき事態に見舞われているからだ。どうして、これほどの大規模な党勢後退が起こったのか。

 

 日本共産党の本格的な党勢後退は、ベルリンの壁が崩壊し、中国の天安門事件が起こった80年代末からすでに始まっていた。80年代末から90年代初頭にかけてソ連・東欧の「プロレタリア独裁政権=共産主義政権」が相次いで崩壊し、中国共産党による民主化運動への武力弾圧が公然化するに及んで、国際的な「共産党離れ」が一斉に起こった。ソ連・東欧の共産主義政権の実態が暴露されるに及んで、共産党が国内組織の運動をすべて指導・支配する「前衛党」体制や、多様な意見や議論の存在を許さない上意下達の組織原則・「民主集中制」などに対する激しい忌避感が一挙に広がったのである。

 

 このような大変動のもとでは、ソ連や中国に対して〝自主独立路線〟を標榜してきた日本共産党もその影響を免れることができなかった。日本共産党がソ連共産党の指導の下につくられたという歴史的経緯や、党名がソ連や中国と同じ「共産党」であることが、国民からはそれらと「同根の存在」とみなされる大きな原因となった。加えて、党の性格を規定する党規約第2条に「日本共産党は労働者階級の前衛政党である」と明記され、組織原則を定式化した民主集中制に関する第14条には「党の決定は無条件に実行しなければならない。個人は組織に、少数は多数に、下級は上級に、全国の党組織は党大会と中央委員会にしたがわなくてはならない」との(誤解の余地がないほど明確な)上意下達の組織原則が記されていることも、「同根の存在」とみなされる有力な背景になった。

 

 事態の重大性を漸く認識した共産党はその後、第22回党大会(2000年)になって数十年ぶりに党規約の改定に踏み切り、党の性格を「日本の労働者階級の党であると同時に、日本国民の党」に改めて「前衛政党」の規定を削除した。また民主集中制の基本的な内容を、(1)党の意思決定は民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める、(2)決定されたことは、みんなで実行にあたる。行動の統一は、国民に対する公党のとしての責任である、(3)すべての指導機関は、選挙によってつくられる、(4)党内に派閥・分派はつくらない、(5)意見が違うことによって、組織的な排除をおこなってはならない――の5つの柱にまとめた。

 

 しかし、党規約の文面を変えたからといって、一片の紙きれで党の体質が変わるわけでもなければ、党の意思決定がある日突然、民主的な議論をつくして実行に移されるわけでもない。長年にわたって形成されてきた党の歴史的体質は、党幹部一人ひとりの身体の血肉と化しているため、党規約が変わっても既存体制が抜本的に刷新されなければ、組織実態や運営方法がそう簡単に変わるわけにはいかない。「党規約を変えた」からといって、「党は新しく生まれ変わった」というわけにはいかないのである。

 

 事実、党規約から「前衛政党」という規定が削除されても、「下級は上級に、全国の党組織は党大会と中央委員会にしたがわなくてはならない」との条文が無くなっても、〝中央委員会体制=党中央〟の権限が弱まったわけではなかった。党運営はすべて〝党中央〟の指示で行われているし、〝党中央〟のメンバーは「選挙によってつくられる」ことになっているが、実質的には上層部の指示で決められるというのが定説になっているからである。また「党内に派閥・分派はつくらない」ことが組織運営上の原則だとしても、それが拡大解釈されて「異論=派閥・分派」と見なされれば、スターリンの大量粛清に見られるように、特定集団による独裁体制への道を開くことになる。それに「意見が違うことによって組織的な排除をおこなってはならない」という条文があったとしても、それが空文化していることは、今回の党首公選制に関する除名問題の経緯を見れば、誰でもわかるというものである。

 

 加えて問題なのは、青年党員の供給源である「日本民主青年同盟」(民青)の規約もまた、共産党規約の「ミニコピー」ともいうべき内容になっていることだ。2011年に改訂された規約を読むと、民青は第1条(基本的性格)で「科学的社会主義と日本共産党綱領に学ぶ」「日本共産党を相談相手に援助を受けて活動する」ことを謳い、第2条(組織原則)では、共産党の民主集中制の規定をほぼそのまま踏襲し、第4条(組織と運営)では、「班-地区―都道府県―中央」という形の垂直型組織のもとに、各機関の役員が「班委員会―地区委員会―都道府県委員会―中央委員会」をつくり、活動に責任を負い、必要な決定を行うことになっている。青年組織までが「中央委員会体制=中央集権システム」のもとに置かれており、共産党の指導が末端まで貫徹する仕組みになっているのである。この規約改定は、80年代には20万人を超えていた民青同盟員が90年代には2万人に激減したことを踏まえてのものであったが、それが弥縫的改定にとどまったことは、共産党の中央集権的体質がいかに強固なものであるかを示すものであろう。

 

 こうして共産党は(民青も)党規約を改定してイメージチエンジを図ったが、それが実態を伴うものではなかっただけに、党勢後退の波はその後も鎮まることはなかった。第19回党大会(1990年)から第28回党大会(2020年)までの30年間の党勢の推移を見ると、党員は1990年48万人、2000年38万人、2010年40万人(非活動党員を除いた実態は30万人)、2020年27万人へと2010年までは10年ごとにほぼ10万人ずつ減少している。赤旗読者もまた1990年286万人、2000年199万人、2010年145万人、2020年100万人と、2000年以前は90万人、2000年以降は10年ごとに50万人前後減少している。このままの状態で推移すると、2030年には党員20万人、赤旗読者50万人に減少する可能性も否定できないし、またこの段階になると、現在の赤旗の発行体制(日刊紙、日曜版、電子版)の維持が困難になり、大幅なリストラが現実のものになるかもしれない。

 

 9月30日の赤旗には、第9回中央委員会総会が10月5、6日の両日、開会されることが予告されている。9中総の議題は、(1)当面の政治対応、(2)「第29回党大会成功、総選挙躍進をめざす党勢拡大・世代的継承の大運動」の推進、(3)第29回党大会の召集、となっている。「9中総は第29回党大会にむけ、総選挙躍進への政治的大攻勢をかけ、『大運動』を全支部運動に発展させるうえで、決定的ともいえる中央委員会総会になるでしょう」というのが開催の謳い文句である。おそらく、志位体制のもとで党勢拡大の大号令が掛けられ、「革命政党」の気概を持って危機突破にあたることが相変わらず強調されるのであろう。

 

 だが事態は、それどころではないはずだ。端的に言えば、拙ブログのタイトルにもあるように、共産党はいま志位体制を固守してこのまま衰退の道を歩むのか、それとも刷新して再生の道を見出すのか――の分岐点に立っていると言わなければならない。次回は、9中総の中身がその期待に応えるものであるかどうか、検証してみたい。(つづく)