京都府大グループの山岳遭難事故を悼む

 晴天続きのゴールデンウィークの最中に、よもやこんな悲しい日記を書くなんて思わなかった。北アルプスで遭難した京都府大グループの痛ましい山岳事故のことだ。今朝の報道によると、教員1人、院生・学生2人、計3人のグループ全員の遺体が発見されたのだという。

 まだ20台の前途有望な若い学生2人の命を失ったことは、悲しんでも余りある出来事だ。ここまで二人の若者を育ててきた御家族の嘆きや悲しみはいかばかりであろうか。しかし府立大学を離れてから10年有余になる私には、この若者たちのことを知る術(すべ)がない。せめても、かっての同僚だった伊藤達夫君(あえて君と呼ぶ)のことを語ろうと思う。

 伊藤君は信州大学農学部の林学科出身で、すでに学生時代から山登りの熱中人間だった。府大の林学科に来てからも、京都の登山仲間や学生たちと一緒に絶えず山に登っていた。結婚してからも、普通なら大学への通勤に便利な場所を選ぶところだが、彼は「出来るだけ山の傍に住みたい」ということで、比良山系山麓の琵琶湖側の南小松に居を構えた。きっと配偶者の理解があったからだろう。

 私は所属する学部が違うので当初は面識がなかったが、小さな大学なのでいつしか話をするようになった。多分、彼が登山のベテランだと伝え聞いたので、私から話しかけたのだと思う。私自身も山歩きが好きで、彼の持つ情報やノウハウを知りたかったからだ。

 伊藤君の第一印象は、俳優の真田広之にも似た精悍な目付きだ。身体は比較的小柄だが、全身バネのような強靭な筋肉をしていた。彼とは年齢も登山経験も比較にならないとはいえ、そのスリムで美しい肉体が羨ましかった。そしていつか一緒に彼と本格的な登山をしたいと思っていた。

 私の山歩きはハイキングに毛が生えたようなもので、登山技術については全くの素人だ。でも森林の匂いが好きで、休日や季節のよい頃になると、無性に山に行きたくなった。だから近畿地方の主だった山は、ほぼ歩いたように思う。なかでも好きだったのが比良山系だ。学生の頃はまだJR湖西線ではなく、江若鉄道(近江地方と若狭地方を結ぶ鉄道)というオンボロ鉄道(ディーゼル車)で通っていたが、湖西線が開通してからは飛躍的に便利になったので、毎週のように出かけるようになった。その度に、北小松に住んでいる伊藤君に北比良山系のいろんなルートを教えてもらった。

 こんな平凡な山歩きを続けていると、何となくもう少し高い山に登ってみたいと思うようになる。しかし体力が不安なので、最初は京都労山という山歩きグループの登山学校に入れてもらって、少しずつ身体を慣らしていった。立山妙高などに行ったのもこのころだ。しかし大勢の人数で行くのは、何かと制約が多い。とりわけ山小屋ですし詰めになるのが私には苦痛だった。もっと少人数で自由にいけないものかと思ったが、でもそんなグループは知らない。そこで伊藤君に相談した。すると、彼は「夏山ならガイドしてもいいよ」と言ってくれたのだ。

 彼が選んでくれたルートは、今回、彼が遭難した場所(鳴沢岳)に比較的近いルートだった。魚津から宇奈月に入り、そこから黒部峡谷鉄道黒部ダム建設のために作った工事運搬用の鉄道)で終点の欅平まで行く。欅平で宿泊して翌日の登山に備え、明け方から一気に登るのである。でもこの急勾配は、生涯忘れられないほどきつかった。途中、餓鬼山(2128m)の無人の山小屋に泊まるので、テントまでは必要なかったが、炊事用具や寝袋など一式を背負わなければならず、これがハイキング程度の軽装しか経験のなかった私にはものすごくこたえたのである。

 翌朝は午前3時に山小屋を出発して唐松岳(2696m)に登頂し、長野県側の八方尾根に出て白馬村に辿り着いたのは午後5時、もう言葉も出ないほど疲れ切っていた。でも伊藤君は、私を気遣いながらも、息ひとつ切らさないで平然と歩いた。ガイドするといっても、別に手を引いてくれるわけでもないし、腰を押してくれるわけでもない。ただ安全を見守ってくれるだけだった。これが山岳ガイドというものかと思い知ったのは、このときのことである。

 それ以降、私は伊藤君に迷惑をかけるのを止めた。アマチュアはアマチュアらしく、ベテランはベテランらしくすることが、お互いにとって安全であり、快適であることを悟ったからだ。彼とは府大を離れてからほとんど会っていない。最後に見かけたのは昨年の暮の京都駅だ。私が湖西線近江今津方面へ行くホームへエースカレーターで降りていくときに(最近は階段が少し辛くなった)、伊藤君が北小松の方から来た電車から降りてきて階段を上ってくるのを目撃した。お互いに急いでいたので、手を上げて挨拶を交わしただけだったが、これが彼とは最後の別れになった。

 伊藤君、君は林学という学問を選び、終世山を愛し、山を研究する人生を歩んできた。人は自分の信じる道を歩み、そこに人生を捧げることほど幸せなことはない。君の人生はわずか50年有余に過ぎなかったが、君は誰よりも密度の高い時間を過ごし、誰よりも生きがいのある人生を送ってきた。君と最初で最後の登山をともにしたことは、私の終世忘れえない思い出だ。心から冥福を祈る。