鉢呂経産相の「死のまち」発言の波紋、野田政権論(3)、(私たちは東日本大震災にいかに向き合うか、その35)

 9月8日、東日本大震災発生から半年を目前にして、野田首相は鉢呂経産相、細野原発担当相を同行して、福島第1原発や周辺市町村を視察し、佐藤雄平知事と会談した。野田氏は財務相時代に被災地を訪れたことがないというから、これが初訪問となる。

それにしても、復興財源の確保や復興予算編成に責任を持たなければならない財務相が、これまで1度も被災地現場に足を運んだことがないというのは、驚きを越して呆れるというものだ。財務相が被災現場も知らないようなことでは、被災自治体や各省庁から上がってくる復興予算要求や関連事業予算案をどうして査定することができるのか不思議でならない。

 しかしここで取り上げるのは、野田首相のことではない。鉢呂経産相が翌日9日午前の閣議後の記者会見で、首相に同行して福島第1原発などを視察した際の印象について、「残念ながら周辺市町村の市街地は人っ子一人いない、まさに『死の町』という形だった」と発言し、その日の午後の2度目の会見で「軽率だった。被災をされている皆さんが戻れるように、除染対策などを強力に進めるということを申し上げたかった」と釈明した件だ。

鉢呂発言に対して野党は一斉に反発し、自民党公明党幹部は、「(被災地の)希望を打ち砕く暴言で大臣としては失格、人間としても不適格、首相の任命責任を問わざるを得ない」とこもごも批判している。野田首相も弁解できないと思ったのか、訪問先の三重県紀宝町で記者団に「不穏当な発言だ。謝罪して訂正してほしい」と早々に事態の収拾を図った。だが民主党幹部の中には、「被災地の住民の神経を逆なでしかねない発言」との危機感が募っているという。(各紙、9月10日)

被災地対応を巡っては、さる7月5日に松本前復興・防災担当相が地元に対する無礼で下品な“成り上がり者発言”で辞任したばかりだ。民主党政権の最重要課題を担う閣僚が「この程度の人物」では、被災地の復旧復興にかける政権の「本気度」が疑われることになる。それに「この程度の人物」が、いずれも旧社会党系出身者である点も気にかかる。民主党のなかで権力にすり寄って生きていくためには、身も心もすり減らして堕ちるところまで堕ちたということだろうか。

これに対して野田内閣は、発足に際して東日本大震災の復旧復興と福島第1原発の早期収束を「最優先の課題」として掲げ、国民の期待を高めた。9月当初に行われた世論調査でも、「野田内閣の震災復興対策に期待できる」51%、「期待できない」25%、「野田内閣の原発事故への対応に期待できる」45%、「期待できない」30%と、いずれも「期待できる」が「期待できない」を大きく上回っている。(朝日、「震災半年全国世論調査」、9月10日)

一方、菅内閣の結果に関しては、「東日本大震災の復興に対する半年間の政府の取り組みを評価する」18%、「評価しない」67%、「福島第一原発事故に対する半年間の政府の対応を評価する」11%、「評価しない」78%と、7〜8割もの圧倒的多数の国民が否定的評価を下している(同上)。これでは、“脱原発”を旗印にして内閣の延命を図ろうとしてもとうてい無理だったということだろう。

だから、今回の鉢呂発言が出だしの野田政権にとっては手痛い打撃になることは間違いない。国民が一番期待している政策課題を担う大臣が、「死のまち」といった被災者の傷口に塩をなすりつけるような言葉を無神経に使うのでは、野田政権に対する国民の期待や信頼は地に落ちてしまう。まして鉢呂氏が記者団に言ったといわれる「放射能をつけちゃうぞ!」といった類の言葉は、この人物の幼稚さと程度の低さを国民に強く印象付けることになったのだから、なおさらのことだ。

しかしその一方、鉢呂発言は一閣僚の失言を超えた“重み”を持っていることも事実だ。その表現が不適切であったとはいえ、原発周辺地域が高線量の放射能で覆われていることは“現実”であり、その除染対策が膨大な予算をともなう困難な事業であることは誰もが知っている。鉢呂氏がそのことを指摘したのであれば、言葉の良し悪しは別にして、「ウソ」を言っているわけではないのである。

むしろ限りなく見苦しいのは、鉢呂発言に乗じて言葉汚く罵っている自民党の方だろう。とりわけ石破氏などは、自分たちの原子力政策が「死のまち」ともいうべき深刻な事態を惹き起こした元凶だという認識が全くないらしい。「死のまち」発言は、いまは言葉の問題としてあらわれているが、それは原発周辺地域の被災者が戻れるか戻れないか、住み続けられるか住めないかの生死をかけた現実を反映しているのであって、自民党公明党は「万死に値する政治責任」を背負っているはずなのだ。(つづく)