不発に終わった“震災復興税”と“東北州”の策動、宮城県震災復興計画を改めて問い直す(9)、(震災1周年の東北地方を訪ねて、その26)

 復興構想会議の委員15名がどのような基準で選ばれたのか、私は知らない。しかし、そのなかで本当の意味での発言権を持つのは、被災3県の知事であることはいうまでもない。選挙で選ばれた知事は、被災者・被災地の声を文字通り代表する政治的正統性を体現しているのだから、その発言はただ単にマスメディアで名前が売れているだけの「居並びタレント」とは重みが違うのだ。

 構想会議の議事録を読むと、各委員からの「思いつき」とも言える散漫な意見が多いなかで、基本的な議論の流れは、五百旗頭議長(御厨議長代理)+村井宮城県知事 VS 佐藤福島県知事+達増岩手県知事の「対決構図」で展開されていることがわかる。政府側の議論の組み立てと役割分担は、まず財界・野村総研のシナリオに沿って村井知事が突出した発言を繰り返し、次に反対意見が続出するなかで五百旗頭議長がその中を取り、最終的には当初の思惑の範囲に結論を着地させるというものだ。 

 これに対して佐藤知事と達増知事の発言は連携プレーとまでは言えなかったが、構想会議の目玉とも言うべき「震災復興税」と「道州制(東北州)」に関する議論では明確な反対意思を表明することで、大災害に乗じた税制と統治構造の新自由主義的改革を封じる役割を果たした。保守的自治体が被災者・被災地の立場を代表し、新自由主義自治体がショックドクトリン計画を推進する立場で互いに激突したのである。

 すでに述べたように、「震災復興税」については達増知事の反対表明が極めて大きな役割を果たした。達増知事は「復興税の議論もあるが、被災地や日本全体の消費を低迷させず、経済の地盤沈下を引き起こさせない復興への取り組みが必要だ」と明言し、多くの委員が同調して、提言のなかに「震災復興税」という具体的税目が盛り込めなくなった。

一方、「道州制(東北州)」に関しては、第5回会議(5月14日)における佐藤知事の「第1次提言に向けた意見」が決定的な影響を与えた。佐藤知事は、「原子力災害を踏まえた特別法の制定」「損害賠償」「地域再生」「原子力災害に特化した協議の場の設置」を提起するとともに、「道州制への懸念」を次のように表明した。

 「被災者は、生まれ育った自分のふるさとに一日も早く帰りたいと望んでいる。現在も全国に避難している3万5千人を超える県民は、1日も早く「福島」に帰りたいと望んでいる。こうした被災者の願いを実現するため、それぞれの地域の実情に合わせた復興に取り組んでいるさなかに、道州制を視野に復興を進めるという意見には賛成できない。なお道州制に関しては、道州内の新たな一極集中、住民自治の確保の難しさ、さらには地域の多様性・アイデンティティの喪失などの懸念があるため、かねてから慎重な対応が必要であると主張してきたところである。」

 村井知事はことあるごとに「被災3県の協調」を強調し、それを担保するための広域的復興機構の設立を求めた。言葉こそ美しいが、それは被災者や被災地の救済は生活再建をめぐっての協調ではない。彼が言うのは「被災3県の協調=東北州の実現をめざす司令塔の構築」であり、「州都=仙台」を擁した宮城県主導の東北地方再編成計画のことなのだ。

だが、地政学的には「東北州の周辺地域」にならざる得ない岩手県にとって、このような手前勝手な提案は受け入れられるはずがない。また原発災害という異質の(しかも進行中の)大災害に直面する福島県が、それぞれの地域の実情に合わせた復興(避難者救済)に必死で取り組んでいるさなかに、道州制を視野に復興を進めるなどいう“火事場ドロボー的提案”をまともに相手にするわけがない。佐藤知事の厳しい意見表明以来、さすがの村井知事も道州制についての発言ができなくなった。

構想会議の提言(6月25日)が出された頃には、すでに求心力を失った菅首相の退陣が既成事実化しており、構想会議そのものが宙に浮く存在になっていた。というよりは、当初提言を予定していた年内までに菅政権が崩壊する可能性が出てきたため、五百旗頭議長が急遽提言をまとめたというところが本当の姿だろう。だから、提言は「項目出し」が中心になり、各紙からも「復興事業の具体策なし」と酷評されることになった。

 またこのままでは、当初、首相の私的諮問機関として発足した復興構想会議の位置づけ、延いては提言そのものの性格も曖昧になりかねないことから、提言の直前に「東日本大震災復興基本法」(6月20日)が急遽成立することになった。首相を本部長とする復興対策本部の設置(11条)、復興構想会議の本部長諮問機関としての位置づけ(18条)、期間を限った復興庁の設置(第4章)、復興債の発行(8条)、復興特別区域制度の創設(10条)など、東日本大震災に関する復興制度・復興事業の枠組みが定められた。しかし、そこには「震災復興税」や「東北州」の項目はなかった。

 提言から3カ月後、御厨議長代理は構想会議の議論を振り返って次のような忌憚のないコメントをしている(日経新聞、2011年9月11日)。

 「はっきり言って(前首相の)菅さんの対応は後手に回った。とにかく遅すぎた。復興構想会議に任せたら、結論が出るまで何もせず、2カ月半を無駄にした。5月の連休前に復興の目玉を出していればずいぶん違ったはずだ。すべてが想定外だった点を考慮しても、評価は合格点に届かない。津波原発事故には全く手が出なかったというのが事実だろう。」

「菅さんの指示が一切ないまま始まり、我々は一体何をどうしたらいいのか、というところからスタートした。会議の委員も実務に詳しい人たちではなかった。専門家だけを集めればもう少し早くまとまった。問題の全容を知るのに時間がかかり、ガイドラインを示す人もいないのが響いた。」

このコメントには、御厨議長代理の考える「復興の目玉」や「結論」の内容は明らかにされていないので真意の理解には苦しむが、しかし菅首相には確たる復興理念がなく、委員の人選や会議の運営方向についても問題が多く、「津波原発事故には全く手が出なかった」ということだけは確かだろう。

そして野田政権の発足後、第13回会議(11月10日)が開催されたものの、この日が復興構想会議の事実上の解散式となった。野田首相の挨拶には構想会議への思い入れは感じられず、政府関係者は「『過去の遺物』と未来の話をすることはない」と述べ、もう構想会議をひらくつもりはないことを言明したという(朝日新聞、2011年11月11日)。(つづく)