建築復興支援運動(アーキエイド)の展開か、それとも“震災ビジネス”の追求か、平成大合併がもたらした石巻市の悲劇(番外編1)、(震災1周年の東北地方を訪ねて、その52)

 7月末で宮城県の復興計画分析を一旦終えてからもう1ヶ月近くも経った。この間、日記を休んで何をしていたかというと、日本災害復興学会機関誌の原稿執筆や基礎経済研究所の研究発表などの準備に予想外の時間を取られたこともあるが、それ以上に石巻市雄勝地区(旧雄勝町)の高台移転計画が急展開を見せたので、関係方面と連絡を取って現地調査に入っていたからだ。

 詳しい経過はこの「番外編シリーズ」でおいおい説明することになるが、8月23日から28日までの間、仙台市では弁護士会の災害特別委員会のメンバー、石巻市では復興事業に携わる建築家協会の方々と会い、「復興ファッシズム」ともいうべき雄勝地区の高台移転計画の実情を詳しく報告して専門家としての率直な見解を尋ねた。また雄勝では高台移転計画に疑問を持つ被災者と突っ込んだ意見交換を行った。

 そのなかで浮かび上がってきたのが、「アーキエイド」のメンバーと称する複数の建築家(大学教員)が石巻市の“アドバイザー”という資格で高台移転計画の図面を書き、また被災者への計画説明会には市当局の一員として説明要員の役割を果たすなど、雄勝地区の高台移転計画の推進に深く(積極的に)加担しているという思いもかけない事実だった。いったい彼らはどのような目的で市当局に協力しているのであろうか。

 「アーキエイド」という名の建築集団の設立趣旨や活動経過については、彼らのホームページに詳しく紹介されている。そのなかの一節を抜粋するとおよそ以下のような輪郭が浮かび上がる。

 「東北大学石巻市と包括協定を結んだことを契機とし半島部に必要な調査を短期間でボランタリーに行うために、建築家のネットワークである<アーキエイド>から大学研究室ベースの精鋭部隊111人が組織され、学生と教員によって牡鹿半島30浜の詳細な調査と丁寧な住民ヒアリング、そしてまとまった資料化が(2011年)7月末の10日間で行われた。」

「大学ベースで行われた被災地調査と現実を見据えた復興計画案提出の中で最も組織的かつスピーディであっただけでなく、日本の最先端の建築家と建築家の卵である学生によってしかできない柔軟さと魅力を備えていた。建築家独自の空間感覚によってリアス式海岸最南端の複雑な地形と文化が読み解かれ、半島の浜独自の文化と生活を活かして構想され、土木や都市計画の図面よりも住民によりそった視点で描かれた未来の浜の計画図。震災後4ヶ月目、緊急の物資の課題と仮設住宅への入居が始まったばかりの浜の人にとっては、かすかに見える未来の一端としてとらえられただろうか。」

東北大学小野田(建築学科教授)が当初から「一過性のワークショップからの脱却」を意図して企画したサマーキャンプは、8月の資料とりまとめと市への提出後、2011年10月から新たなフェーズに入った。国土交通省の防災集団移転促進事業(通称:防集)の具体的事業化による高台移転候補地の選定に東北工業大学福屋(建築学科講師)をスケジューラとしてサマーキャンプの大学チームも順次参加し、住民意見交換会などにも参加を続けていくことになる。」

「住民意向アンケートのとりまとめについての牡鹿総合支所への協力の他、1大学が1〜3ヶ月に1回浜を訪れて意向調査と図面化・模型化により復興計画ヒアリングに加わるペースが半年ほど続き、述べ訪問回数は12大学が半年で計50回以上。牡鹿総合支所・荻浜支所・各行政区長と連携をとって動き、2012年5月からは石巻復興まちづくり検討会半島部ワーキンググループにおいて、復興における半島部特有の課題を共有しながら、浜の復興プランへのアドバイスと模型等による意向調査支援を続けている。」

阪神・淡路大震災の時も、全国から多数の建築家や大学教員、学生たちがボランティアとして救援に駆け付けた。なかでも各大学が協力分担して実施した被災地域全体の家屋被災実態調査はその後の復興計画のベースマップとなり、学術的にも実践的にも貴重な資料として各方面から高く評価された。またこのような体験を通して、多くの学生がその後「まちづくりコンサルタント」として成長していったことも大きな成果だった。

東日本大震災はその規模や範囲が阪神・淡路大震災をはるかに上回るだけに、東北地方の各大学や専門家団体はいうに及ばず、全国からの支援ネットワークが強く求められたことはいうまでもない。この1年半有余、多くの建築専門団体が全国支援ネットワークを組織し、物心両面から被災地への支援活動を続けてきたのはそのためであり、「アーキエイド」もその動きの一環であるとすれば実に喜ばしいことだ。

ホームページから見る限り、「アーキエイド」の活動は牡鹿半島(旧牡鹿町)を中心に展開されているように見える。活動の一端は、今年3月に東北工業大学で行われた「第26回東北建築フォーラム」でアーキエイド発起人の1人である福屋氏から直接聴く機会があり、そのエネルギッシュな活動ぶりに感動したことを昨日のことのように記憶している。もしそれが事実であるとすれば、阪神・淡路大震災の支援活動のレベルを凌駕するものとして高く評価されること疑いなしだろう。

 だが同時に、そのときの質疑応答のなかで若干気にかかることもあった。それは、福屋氏が「アーキエイドの支援事業のスタンスは、政府各省庁の復興事業(5省40事業)を前提に進めること」と割り切っていたことだ。これは民間設計事務所出身の福屋氏にとっては当然の前提であろうが、今回の高台移転事業のように事業そのものが被災者の間で激しい対立を呼び起こす場合には、政策や事業手法そのものの再検討が必要になることを軽視しているとも言える。

 そして事業そのものの限界や問題点を深く検証することなく、その実現(だけ)を目指すとなると、建築家の“熱意”は被災者にとってはかえって「強制」となり「圧力」と受け取られる事態も起こり得る。建築家や専門家はあくまでも被災者に対して謙虚であり、控え目であることが要求されるにもかかわらず、その立場を乗り越えて「指導者」ぶりを発揮するようになると、そこに軋轢が生じることは避けがたい。雄勝地区の場合はまさにその典型であり、なおかつ建築家(大学教員)の背後に高台移転事業を“ビジネスチャンス”にしようとする魂胆が透けて見える最悪のケースになったのである。(つづく)