日本学術会議は、我が国の人文・社会科学、生命科学、理学・工学の全分野の約84万人の科学者を内外に代表する機関だとされ、210人の会員と約2000人の連携会員によって組織されている。学術会議(1948年発足)は文法経理工農医の7部会で構成され、各部会会員は研究者の直接選挙で選ばれるという民主的な研究者代表機関であり、当時は「学者の国会」とも呼ばれていた。
しかし、学術会議のこうした民主的性格を嫌った政府・自民党の手で1983年に日本学術会議法が改正され(政府の文教政策・科学技術政策に批判的な会員が多かったので)、会員選出方法が研究者の直接選挙から学術研究団体(学協会)の推薦にもとづく首相任命に変更された。以来、学術会議は研究者からすっかり乖離した遠い存在となり、人文・社会科学分野はともかく、工学分野などでは(それ以前もそうであったが)いわゆる「学会ボス」といわれる大物しか推薦されないシステムが定着した。
さらに2004年の法改正によって、会員選出方法がこれまでの学協会推薦から日本学術会議自身が会員候補者を選考するという方法に変更された。学術会議自身が次期会員候補を選考することの意味は、要するに現会員が候補者推薦会議をつくって後任会員を選考し指名するということだ。国会で言えば、解散と選挙によって次期議員が選ばれるのではなく、現議員の指名で新しい議員が決まるということだから、「学閥間の談合」や「大物会員による世襲人事」が生じても不思議ではない。
また学術会議を代表する会長・副会長にしても、直接選挙時代には朝永振一郎・桑原武夫など名実ともに日本を代表する碩学が選ばれており、アカデミック組織としての学術会議の権威も高かった。だが法改正以降は、政府審議会の要職を歴任する大物会員の中から会長が選ばれるようになり、「科学テクノクラート」ともいうべき人物が学術会議のトップに就くことが多くなった。いわば、一種の「政治人事」によって学術会議会長が決まるようになったのである。
その極めつきが、第22期会長に選ばれた大西隆氏であろう。日本学術会議法第4章の「会員の推薦」には、第17条に「日本学術会議は、規則の定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府の定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする」とあるが、さしたる研究業績もない大西氏がなぜ会員(土木工学・建築学)に選ばれ、しかも会長にまで選出されたのか、私にはまったく理解できない。
通常、学術会議の会長は役員経験者の中から選ばれる。学術会議初の人文科学系会長として話題になった第21期会長の広渡清吾氏の場合も、それ以前に第1部長(人文科学系)や副会長を経験した後に会長に選出されている。また歴代会長もそのような経歴を有する人が多い。ところが大西氏の場合は、第22期会員(土木工学・建築学)に選ばれたばかりの無名の新人であるにもかかわらずいきなり会長に選出されたのだから、多くの会員の間からは「大西、WHO?」という声が上がったのも無理はない。
ここからは私の推測だが、大西氏は明らかに野田政権の意向によって学術会議会員に推薦され、会長に選出されたのだといえる。いうまでもなくその最終目的(狙い)は、学術会議による原発再稼働の容認だ。国家戦略会議のフロンティア部会座長に大西氏を据えることを決定した野田政権は、それだけでは不十分だということで大西氏を学術会議会長に選出し、学術会議そのものを「原発再稼働容認」の方向へ誘導することを目論んだのではないか。
これは決して私個人の憶測ではない。学術会議会員との交流集会後に聞いた「ここだけの話」であるが、会長就任後の大西氏が周辺会員に対して「学術会議をなんとか原発再稼働容認の方向に持って行けないか」と秘かに持ちかけているというのである。「できれば容認決議を出したい」とまで言っているのだから、野田政権(というよりは政府・財界)から託された「使命」を本気で果たそうと思っているのだろう。
こんな懸念を近辺の学術会議会員に伝えたところ、「そんなことはあり得ない」、「学術会議会員の見識からしてそんなことが通るはずがない」との声が異口同音に返ってきた。でも工学系会員のほとんどが「原発ゼロ」反対であり、「原発再稼働」賛成であることから考えると、大西氏の言動はあながち荒唐無稽なものだとは言い切れない。
いまや福島原発災害をめぐる議論は、「原子力ムラ」「開発ムラ」「安全保障ムラ」を横断する戦略的課題として火花を散らすようになった。大西氏が会長を務める計画行政学会では、政府そのもの意向である「原発周辺警戒区域20キロ圏の双葉、大熊、浪江、富岡、楢葉の5町を廃町して土地は国が買い取り、住民は土地なしで他の市町村に合併させる」という復興計画案が堂々と提起されており、しかも大西氏が国家戦略会議座長や学術会議会長の権威を背景にしてその推進に当たっているのだから、事態は決して侮れないと言うべきであろう。