再録『ねっとわーく京都』2011年8月号、津波跡地に家を建ててはいけないのか〜人間にとって“住むこと”の意味、(その1)〜(広原盛明の聞知見考、第7回)

憲法22条が否定されようとしている
 日本国憲法第22条に、国民の基本的人権として「居住・移転・職業選択の自由」が明記されている。条文で言えば、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」というものだ。前近代社会における庶民大衆は、身分・職業・居所が固定化されるという制約のもとで長年にわたって自由を束縛されてきた。近代社会の到来は、これら制約を取り払うことによって人々に社会的移動の自由を与え、日本国憲法はこれを国民の基本的人権として確立した。 
 だが、東日本大震災の復旧復興対策において、憲法22条の精神が否定されかねない事態が進行している。漁民が漁業という「職業選択(継続)の自由」を行使しようとするにもかかわらず、津波跡地での建築制限と居住規制によって「居住選択の自由」が侵され、漁業継続が困難になって失業の危機に直面するといった事態が発生しているのである。また農民や酪農家は、原発警戒区域からの有無を言わせない強制避難・強制移転によって耕作放棄や酪農廃業を迫られ、「居住および職業選択の自由」が乱暴にも否定されている。
 津波跡地における建築制限と居住規制の名目は「津波災害から人命を守る」というもの、そして原発警戒区域からの強制避難・強制移転は「放射能汚染から人命を守る」というものだ。「人命を守る」ことは、“公共の福祉”のなかの核心であるだけに、いかなる人といえどもこの名目に反対することは難しい。漁師が津波跡地に家を建てないで我慢しているのも、農民が自宅や家畜を捨てて遠方の避難先に身を寄せているのも、すべては「人命を守る」という名目に従わざるを得ないためだ。
 だがしかし、本当に津波跡地に家は建てられないのか、建ててはいけないのか。本稿では被災地の再建方策に関して、一見無謀とも思える「津波跡地に家を建てる」ことの是非について考えてみたい。 

災害復興計画の要諦
津波で根こそぎ破壊された被災現場に立ってみると、もうこんな危険な所に二度と住みたくないという感情が込み上げて来る。人々が安全な場所で幸せに暮らすことができれば、それに越したことはないからだ。だが問題は、「安全な場所の確保」と「幸せな暮らしの実現」が両立し得るかという点にある。
災害復興計画の要諦は、「理想郷の建設計画」をつくることが目的でないことをわきまえることだ。そんな条件はいまや国にも自治体にもないのだから、「こうありたい」ことと「こうせざるを得ない」ことを総合的に勘案して、その妥協点を「まちづくり計画」として関係者が合意する(上からの押し付けではない)以外に方法がないのである。
 菅首相は、東日本大震災復興構想会議を発足させるにあたって、津波跡地における住宅建設を禁止し、高所にエコタウンを建設して、そこから漁師が漁港へ通勤すればよいといった「復興ビジョン」を語った。だが、海辺に住まなければその日の暮らしが成り立たない漁師たちが、そんな「思いつき」や「ポンチ絵」に跳びつくわけがない。各地の漁協組合長が「馬鹿にするな!」と怒ったのは、当然すぎるほど当然のことなのだ。
移転先がたとえ安全であったとしても、そこで暮らしていけないとしたら、被災者たちが住み続ける(定住する)ことは難しい。国や自治体が津波跡地で建築制限と居住規制を実施し、高地移転を指示するのであれば、被災者の安全と暮らしが両立し得る条件をまず用意することが前提だろう。それが憲法25条を遵守しなければならない政府の対応というものだ。 
安全は暮らしの一部、全てではない
 東日本大震災以前の津波災害として記憶に新しいのは、インドネシアスマトラ沖地震(史上第2の超巨大地震マグニチュード9.3)の津波災害だ。スマトラ津波災害の恐るべき光景は、日本でも繰り返しテレビで報道されたこともあって、いまなお多くの人びとの脳裏に焼き付いている。
被災後、インドネシア政府やアチェ州では津波対策として海岸線から数キロ以内の住宅建設を禁止し、内陸部に住宅を建設しようとする方針だった。しかし計画が遅々として進まないなかで、漁民のほとんどは「そんな場所では住めない」、「漁ができない」として元の漁村に舞い戻り、各々が自力で住宅建設を始めた。いまでは沿岸部の復興計画は悉く「絵に描いた餅」になり、一部実現した高地の住宅地においても「そこでは食えない」ので、すでにその半分が空家になっているという。
 私は、「津波の危険を無視して沿岸被災地を復旧すべきだ」と言っているのではない。人々の生命も財産も根こそぎ破壊する津波の恐ろしさは、いくら警戒しても警戒しすぎることはない。だが、津波を警戒することと津波跡地を建築制限区域や居住規制区域にすることとは同じでない。別の次元の話なのだ。
 理由は明確だ。それは「安全」は「暮らし」の一部であって、全てではないからである。「暮らし」の中に「安全」があるのであって、その逆ではないのである。「暮らし」すなわち人間の生命と生活の再生産の営みは、地域住民の仕事と収入の確保、健康と福祉の維持、子どもたちの教育条件の整備、そしてコミュニティの形成など、多様な条件がそろわなくては持続できない。「安全」だけを確保しても、全体の「暮らし」が成り立たなければ、そこに“住み続ける”ことは不可能なのである。

災害教訓の継承に関する報告書
 5月下旬に東京で開催された都市・住宅政策関係の学会において、「東日本大震災とまちづくり」というシンポジウムがあった。このとき、シンポジストとして参加した国土交通省の大臣官房審議官は、中央防災会議の『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書、1960チリ地震津波』(内閣府防災部門、2010年)を引用して、「防潮堤を高くし、安全性を高めることによる安心感が土地利用計画や防災体制の強化といった対策を推進しにくくし、また災害文化の継承も難しくするという副作用を生んでしまった」と述べた。
 災害教訓の継承に関する専門調査会とは、わが国が経験した各種の大きな災害について災害教訓をとりまとめ、被災の経験と国民的な知恵を的確に継承しようという目的で、2003年に中央防災会議に設置された専門調査会のことだ。当初は10年で100災害を取り上げるという意欲的な計画でスタートしたが、徐々に防災予算が削減されて合計23災害に関する教訓をまとめた段階で惜しくも2010年に活動を終了した。最終回の第15回会議は、皮肉にも東日本大震災が発生する僅か2ヶ月余り前の2010年12月22日だった。 
とはいえ、“災害教訓の継承”を目的とするこの専門調査会は、主に工学(土木系)関係者から構成される通常の災害専門委員会とは異なり、歴史学者や人文社会学者も加わった異色の組織だった。「災害教訓の継承という意味では、災害の普遍的な特性と同時に災害環境・地域特性の視点を見逃すことはできない。また時代環境・社会環境の差異もあり、たとえば関東大震災阪神・淡路大震災の比較は容易にはできない」、「私たちはあらゆる災害を教訓として継承しなければならない」、「災害教訓は永遠に減災に通じる」(防災情報新聞、2009年3月27日)といった調査趣旨は、東日本大震災に関しても私たちが継承すべき基本的な防災哲学だ。

昭和三陸津波の教訓
話を元に戻そう。前述のシンポジウムで引用された『1960チリ地震津波報告書』の中に、昭和三陸津波(1993年3月)に関する注目すべき資料が再録されている。それは、津波発生から3カ月後に文部省震災予防評議会が提案した「津波予防に関する注意書」(1933年6月)という文書だ。この文書には、いま考えても「総合的津波防災対策」ともいうべきバランスのとれた「10の注意書」が列挙されている。なかなか味わい深い内容なので、原文の一部を抜粋して紹介しよう。
①高地への移転(浪災予防法として最も推奨すべきは高地への移転なりとす)
②防波堤(普通の防波堤は風波を凌ぐに足るも大津浪に対しては其の効果を期し難し。之を津浪に対して有効ならしめんには其の高さに於ても其の幅に於ても更に幾倍の大さに増さざるべからず、費用莫大なる為実行困難ならん)
防潮林防潮林は津浪の勢力を減殺する効あり、海岸に広闊なる平地あるときは海浜一帯に之を設くるを可とす)
④護岸(略)
⑤防浪地区(繁華なる街区が津浪の余り高からざる海浜にありて而も多少津浪の侵入を覚悟せざるべからざる場合に於ては防浪地区を設置し区内に耐浪建築を併立せしむるを可とす)
⑥緩衝地区(津浪の侵入を阻止せんとせば必然の結果として局部に於ける増水と隣接地区への反射或は反乱を招来するべし、川の流路、渓谷或は其の他の低地を犠牲に供して之を緩衝地区となし以て津浪の自由侵入に放任するに於ては隣接地区の浪害を軽減するに足るべし)
⑦避難道路(安全なる高地への避難道路は何れの町村部落にも必要なるべし)
⑧津浪警戒(津浪予知の困難なるは地震予知の困難なるに等し、然れども津浪の波及は緩慢にして其の発生より海岸に到達するまでに三陸東沿岸に於ては通例20分間の余裕あるを以て、器械或は体験によりて其の副現象を観測し、之に依て津浪襲来の接近を察知すべし)
⑨津浪避難(地震の性質其の他によりて津浪の虞之ありと認むるときは老幼虚弱のものは先づ安全なる高地に避難すべく、其処に1時間程の辛抱をなすを要す、津浪襲来の徴を認めたる場合、警鐘電話等に依る警告を発するに遺憾なきを期すべし)
⑩記念事業(浪災予防上の一大強敵は時の経過に伴ふ戒心の弛緩なりとす。浪災予防に関する常識養成の如きは之を罹災地の一般国民に課して極めて有意義なるものたるべく、之を災害記念日に施行するに於て印象最も深かるべし。記念碑を建設するも亦前記の趣旨に適するものなり、是れ不幸たる罹災者に対する供養塔たるのみならず、将来の津浪に対し安全なる高地への案内者となり、兼ねて浪災予防上の注意を喚起すべき資料ともなり得べきを以てなり)
要するにここで言っていることは、莫大な予算を要する防波堤建設は困難なので、津波防災に対しては警戒、避難、浸水地区・遊水地区の設定、防潮林、護岸工事、高地移転、そして災害記念行事の開催などあらゆる対策を総合的に講じなければならないということだ。

巨大土木事業で歪められた津波防災
 ところがその後、チリ地震津波(1960年5月)が三陸海岸に押し寄せたとき、5〜6メートル程度の津波高に対しては防波堤・防潮堤が有効に機能したことを契機に、「わが国の津波対策は構造物建設を柱とする方向に大きく舵を切った」のである。その背景には、1960年代に始まった高度成長政策による財政力の急激な拡大とそれを原資とする“土建国家”の成立があった。公共事業を軸に国土開発・地域開発が大々的に展開され、高速道路やダム建設、防潮堤や防波堤の建設など巨大土木事業が自民党政権の開発利権と絡んで強力に推進された。岩手県の巨大護岸工事が「小沢王国」の形成によってますます加速されたことは想像に難くない。前記報告書は、次のような結びで終わっている。
 「特別措置法で施設の新設又は改良に関する事業が津波対策事業と位置づけられて大々的に施設整備が進み、しかもその効果が実証されたことで、津波はもう怖くないという錯覚が生まれてしまった感がある。昭和三陸津波後の経験的総合津波防災を経済力・技術力がなかった時代の非力なものとして切り捨て、チリ津波と明治・昭和三陸津波との外力の差を意識の外に追いやってしまったのだ。そして防潮堤高くし、安全性を高めることにより、土地利用計画や防災体制の強化といった対策を推進しにくくし、また災害文化の継承も難しくなるという副作用を生んでしまった。」
 「明治・昭和三陸津波を経験した岩手県では、より大きな津波への対策を必要としたが、結局、防潮堤の嵩上げしかできなくなっていた。(中略)当初、専門家は構造物対策の限界を理解していたはずなのだが、構造物以外の対策はとれなくなっていくのである。今日、日本中で防潮堤ギリギリまで民家が建ち並び、強い地震が発生しても大多数の住民が避難しようとせず、防災訓練の参加者もチリ津波経験者がほとんどだという現実がある。」
 「ある防災対策を実行するとき、それが何を対象とした対策でどのような効果があるかを明確にすることが非常に重要である。たとえ計画立案者には明確であっても、住民が理解していなければ思いもしなかった副作用が現れる。専門家と住民・メディアが危険性の共通認識を持つことができなかったことが、その後の対策を縛り、結果的に従来からの総合的津波防災を歪めてしまった。これもチリ津波の教訓の一つである。」
 「高地移転」という地域リストラ型防災対策
岩手県を中心とする巨大土木防災事業が破綻した現在、それに代わって東日本大震災の復興構想として政府から打ち出されている計画コンセプトは「高地移転」だ。「高地移転」は、津波が襲ってこないので防災対策としてもわかりやすく、昭和三陸津波の注意書でも「最も推奨すべきは高地への移転なり」とされている。近くに適当な高地があり、そこで「暮らし」が成り立つような条件が整備されるのであればそれに越したことはないからだ。
だが厄介なのは、三陸沿岸には適当な高地が近くに得られないことに加えて、政府が考えている「高地移転」が単なる防災対策ではなく、その背後には盛り沢山の「地域リストラ政策」が付着していることである。その先鋒部隊として目下大活躍しているのが、防衛大学校自衛官出身でわが国初めての知事になった村井宮城県知事だ。村井知事は、松下政経塾出身という経歴を生かして財界系シンクタンク野村総研の全面的協力の下に、零細漁港の集約による大規模漁港の建設、漁業権の民間開放による水産業の大規模化、農地集約による大規模企業農業経営の導入、そして道州制の「先行モデル」としての市町村再編などを掲げて「宮城県震災復興計画」を鋭意策定中だ。
このため、宮城県では建築基準法第84条にもとづく建築制限を震災発生から2カ月間(5月11日まで)気仙沼市南三陸町など3市2町で始めた。この建築制限は村井知事の強い要望により特例法として8カ月間に延長され(11月11日まで)、その後は被災市街地特別措置法でさらに2年間(2013年11月11日まで)延長することも可能となっている。
宮城県の意向は、津波跡地に「人命を守る」、「無秩序な市街地をつくらない」という名目で長期にわたって被災地に建築制限をかけ、農漁業・市町村再編とのセットで「高地移転」を進めるつもりだと聞くが、しかしこんな被災者の基本的人権とニーズを無視した「復興計画」など成功するはずがない。なぜなら、漁師や漁協が命の綱である漁業権を手放すはずがないし、農民や農協が生活の礎である田畑を売却して易々と離農するはずもないからだ。
また被災地の土地利用に関して住民の合意が得られず、いたずらに建築制限を引き延ばすようなことがあれば、津波跡地には結局何も建たなくなって「無人地帯化」するか、あるいは建築制限を無視した「違法建築の山」になるかのどちらかになるだろう。いずれの場合も地域が荒廃することは避けられそうにない。生産手段を失った農業者や漁業者は「陸に上がった河童」も同然である以上、「高地移転」しても食べていけなければ、流浪するか元の場所に戻るかの道しかないからだ。 
仮設市街地からまちづくりを始めよう
岩手県福島県は、目下、宮城県のように津波跡地に建築制限をかけていない。福島県では原発事故が収束しないこともあって「それどころではない」のであり、また岩手県では適当な高地がなかなか得られないこともあって、「高所移転」の目途がつかないからだ。だから多くの被災市町村は、津波跡地を若干嵩上げ(土盛り)して区画整理することを考えており、当面は必要最小限の津波対策をしながら、将来のことは「これから」というわけだ。
私が阪神淡路大震災の復興計画とりわけ神戸市の復興都市計画から学んだことは、「計画は役所と専門家だけではつくらない」、「本格的な計画をすぐにはつくらない」、「鉄とコンクリートだけのハコモノ計画はつくらない」という3原則だ。これを言い換えれば、「住民が(行政と専門家の協力を得て)主体的にまちをつくる」、「当面は暫定的な対策で合意し、生活が再建されてから本格的なまちをつくる」、「ハコモノ計画は必要最小限にして、仕事と収入を得る対策を最優先する」ということになる。つまり、当面は津波跡地に仮設の住宅・市場・工場・公共施設などから成る「仮設市街地」を復旧して、まずは住む場所と働く場所を確保し、生活再建が一定軌道に乗ってから「恒久市街地」のまちづくりに取り掛かるというものだ。
まちづくりは、「ハコモノ」と「コミュニティ」の両方をバランスよくすることで持続的に発展し、人々が住み続けることを可能にする。私が被災地現場の専門家交流会で、「瓦礫が撤去されたゴーストタウンをつくるよりも、瓦礫の中で開かれる屋台村に未来を見出そう」といったのはこのことだ。次回は、「原発警戒区域に人が住んではいけないのか」という「大胆なテーマ」を考えてみたい。

●補注:高台移転はどこでも難航している。最近になって政府は「高台移転は選択肢の一つ」などと言い始めた。