『竹山おさみ・マニフェスト(第1版)』は“本文のない目次”のようなもの、政治哲学・まちづくり哲学のないマニフェストは“マニフェスト”とは言えない、堺市長選の分析(その6)、改憲勢力に如何に立ち向かうか(36)

 「マニフェスト選挙」という言葉が一時流行っていた頃、マスメディアの世界でも大きな誤解があった。それは「出来もしない選挙公約」を批判する余り、マニフェストは具体的な「数値をともなった公約」でなければ意味がないという誤解である。だが、無理をして数値を並べても見通しがつかない(裏付けができない)ので、「マニフェスト選挙=数値公約」はその後次第に姿を消していった。

 次に「マニフェスト選挙」そのものに大打撃を与えたのが民主党政権交代選挙だった。政権交代後、民主党の歴代内閣が総選挙で掲げた政権公約を次から次へと破棄し、あまつさえマニフェストには書かれていない政策を強行するに及んで、マニフェスト選挙は「ウソツキ選挙」の代名詞とさえなった。マニフェスト選挙は、民主党の没落と共に消えていくかと思われていたのである。

 しかし適当な言葉がなかったのか、それともマニフェスト選挙に新しい風を吹き込む意欲の表れか、竹山陣営の選挙公約は『竹山おさみ・マニフェスト』として発表された。記者発表当日(8月30日)の午後、私は偶然にも竹山市長から直接にその説明を受け、資料として『竹山おさみ・マニフェスト(第1版)』(以下、「竹山マニフェスト」という)をいただいた。表紙を除くとA4版3頁のごく簡単なものだ。

 竹山マニフェストは、大きくは2つの部分から構成されている。第1は基本姿勢であり、「堺はひとつ! 堺のことは堺で決める!」、「堺の自治を守れ! STOP大阪都構想!」というもの。第2は政策プロジェクトを列挙したもので、「堺・3つの挑戦〜市民とともに取り組む3つのプロジェクト」として、「1.子育てのまち堺〜命のつながりへの挑戦」、「2.歴史文化のまち堺〜魅力創造への挑戦」、「3.匠の技が生きるまち堺〜感京都市への挑戦」というものである。そして付け足し程度に「市民が安心、元気なまち堺」があげられている。掲げられた政策項目はいずれもが橋下維新のアンティテーゼとして意識されたものであり、その内容自体に異議はない。だが問題はその書き方だ。

 竹山マニフェストは「第1版」だから、これから次々とバージョンアップされて「第2版」「第3版」が出されるのであろうが、それにしてもこの「第1版」はお粗末すぎる。私の率直な印象からすれば、竹山マニフェストには政策の項目が列挙されているだけで中身の説明がほとんどないのである。いわば「街頭演説用のレジュメ」と言ったレベルのものであり、「本文のない目次だけ」(黄身のない卵、いや卵の殻)といっても差し支えない代物なのだ。この程度(低レベル)のマニフェストしかつくれないとすれば、選対本部(あるいは市長側近)の力量は「危うし!」という他はないが、最大の問題点は書き手が「マニフェストが何たるか」がからきしわかっていないことだろう。

 具体的な問題点を指摘するとすれば、第1に「政策は多ければ多いほどよい」というものではないことである。たとえば「市民の健康づくり」、「福祉のまちづくり」、「平和と人権のまちづくり」、「犯罪のないまちづくり」、「男女平等社会づくり」などなど滅多やたらに数多くの政策が列挙されているが、どれもこれもが「進めます」「めざします」「努めます」といった紋切り型の表現でしかない。こんな抽象的な政策を掲げても市民は誰も読んでくれないことは分かり切っているのに、どうして百年一日の如く書くのかまったく気が知れない。道路標識でも数が多くなればなるほどドライバーが無視する確率が増えていくのと同じことだ。

 第2は、政策が平板的に羅列されているだけで構造化(体系化)されていないことだ。たとえば、「歴文化のまち堺」を再生させるためのプロジェクトが9つも並んでいるが、どれが“戦略的プロジェクト”であり、どれから着手するのかもわからない。市の財政には限界があり、これらのプロジェクトを一挙に実現できる条件がない以上、政策には“メリハリ“をつけることが必要であり、それが市民の前に「目に見える」ような形で提起されなければ選挙公約としては意味がないし、アピール力もない。おそらく書き手は市の基本計画と同じような調子で形式的に書いているのであろうが、これでは市民の心を捉えることは難しい。

 第3は、(これが最大の弱点だが)竹山マニフェストには政治哲学・まちづくり哲学がないことだ。これは同行したジャーナリストも同意見であり、彼も竹山マニフェストの心髄は、橋下維新の「大阪都構想」と真っ向から対決する政治理念や行政理念で埋め尽くされるものと考えていた(期待していた)。ところが、竹山マニフェストの基本姿勢の部分は「まえがき」程度に矮小化され、何のために市長選を戦うのかという政治哲学がよく伝わってこない。これはおそらく自民党本部が竹山氏を推薦にせず「支持」にとどめたことと関係しているのであろうが、旧保守としての自民大阪府連もそろそろ腹を括らないと橋下維新に足をすくわれるだろう。

 まちづくり哲学の欠如については前回の日記で述べたので、ここでは繰り返さない。しかし「反大阪都構想」と堺のまちづくりが直結していることを打ち出さなければ、オリンピック誘致のような大プロジェクト志向の橋下維新にやられるおそれは十分ある。ここで想起しなければならないことは、高度成長期を通して堺市がどれほど大阪府大阪市)の開発行政に振り回され、堺市固有の歴史と文化、自然を失ってきたかということだ。まちづくりは「歴史を振り返ることで未来を考える」ことが鉄則であり、このまちづくり哲学に立脚しない限り、橋下維新の大開発構想に対抗することは難しい。(つづく)