堺市総合計画、『堺21世紀・未来デザイン』(2001年策定、10カ年計画)は、20世紀末に破綻した成長型都市計画の干からびた残像にすぎない、堺市の都市再生にとって必要なのは“持続型まちづくり”なのだ、堺市長選の分析(その27)、改憲勢力に如何に立ち向かうか(57)

 堺市は、表向き「歴史的自由都市自治都市」を標榜しながら、その実は根っからの“成長(至上)主義都市”だった。隣接する大阪市の凄まじい工業化・都市化の圧力に絶えず曝されてきた結果、自らも大都市(政令指定都市)に成長しようとする意気込みが物凄く強かった。その手段が大規模開発と周辺市町村の広域吸収合併である。

 堺市の大規模開発は、河盛市長の臨海工業地帯の造成と泉北丘陵の開発を柱とする「100万都市構想」(1961年)によって幕が切って落とされた。すでに1957年から臨海工業地帯の造成工事が始まっており、1965年には泉北ニュータウンの開発がスタートした。人口は1963年にはじめて40万人を超え、以降、急成長を重ねて1985年には倍増して約82万人(ピーク時人口)に達した。

 一方、周辺市町村の吸収合併は、河盛市長が大阪湾沿岸部から内陸部にわたる7市5町の大合併を推進する「広域都市構想」(1966年、合併人口96万人)を発表したが、「堺中心主義」の身勝手さと余りの強引さに対する周辺自治体の反発は強く、最終的には合併に反対する住民運動の激化によって断念させられた。「自治都市」を標榜する堺市が、周辺自治体の自治を踏みにじって吸収合併するといった矛盾に満ちた行動は成功するはずもなかったのである(堺市を吸収合併しようとする橋下維新の「大阪都構想」に対して、堺市民が反対したように)。

 ところが、1985年をピークにして堺市の人口は減少傾向に転じ、2000年には79万人余りにまで減少した。沿岸部の環境悪化(公害問題)にともなう人口減少が一段と加速し、もはや内陸部の開発による転入人口を上回る事態にまで発展したのである。人口増を目論んで開発した臨海工業地帯が人口減少の最大の引き金になったのだから、皮肉なことこのうえもない。

 このままで行けば、堺市の悲願だった政令指定都市への昇格は「夢のマスタープラン」のままで終わったであろう。ところが2001年、国の構造改革政策の一環として「2005年3月末までに大規模合併が行われる場合には、政令指定都市の弾力的な指定を検討する」との緩和措置が示され、堺市にとっては政令市指定を受けるうえで80万人を確保することが至上命題となった。その後の美原町との強引な合併劇の顛末は、「知る人ぞ知る」である。堺市美原町と合併して人口83万人余りを確保し、政令指定都市に移行したのは2006年4月のことだ。

 2013年9月現在の堺市の人口は84万1千人、政令指定都市への移行時から若干増加したものの、将来推計人口は2015年あたりをピークにして2030年までには77〜80万人前後に減少すると推計されている。要するに、堺市自らが「これからは人口が減る」ことを認めているということだ。となれば、都市成長すなわち人口増を前提にした従前の総合計画や都市計画は、抜本的に再検討されなければならないはずである。

 しかし、堺市総合計画『堺21世紀・未来デザイン』(2001年策定、10カ年計画)をみると、堺市の人口が20年間で40万人から80万人に倍増した高度成長時代のような“成長型コンセプト”(基本的な考え方)で覆われている。まるで、堺市の人口がこれからも倍々ゲームで増加するような“成長型都市計画”が大手を振って展開されているのである。これでは、堺市は「入れ物だけが大きくて中身のない都市」になってしまう。

 『堺21世紀・未来デザイン』の「都市空間計画」の「都市構造」の項目をみよう。そこでは「住区から大阪大都市圏に及ぶ圏域に対応して、都市拠点や地域生活拠点を適正に配置し、拠点相互や周辺都市との間を結ぶ都市軸により都市の骨格を形成します」と書かれている。要するに、「都市拠点」「地域生活拠点」「都市軸」の3つが都市構造のキーワードであり、この3つで「都市の骨格」をつくるというのである。

 「都市拠点」の説明はこうだ。「都市拠点相互の連携や適正な機能分担をはかりながら、本市発展の中心的役割を担う都心の活性化と中百舌鳥新都心及び臨海新都心の形成をすすめます。また、これら都市拠点間を結ぶ軸とその周辺地域においては、都市拠点市街地ゾーンとして都市拠点相互の有機的な結びつきを強めながら、一体的に都市機能の集積を進めます」。

 だが、考えてもみたい。堺市はすでに83万人の市民が住む都市が形成されているではないか。それにこれからは人口が減る。人間の身体に例えれば、これからは体重が減って「スリム」になっていくのである。それなのに、なぜ「大きなダブダブの服」をわざわざ作る必要があるのか、私はこの考え方がまったく理解できない。

 「都市拠点」を重視するのは、都市拠点に都市機能を集積させることによって高度化を図り、それが都市発展の推進力になるとの考え方にもとづくものであろう。しかしこの計画コンセプトは、都市成長を前提にした「プラスサム」時代の産物だ。「プラスサム」とは「集積が集積を呼ぶ」状態のことで、ある拠点地域への集中投資が周辺地域にも恩恵を及ぼすことを意味する。橋下氏が「梅きたグランフロント」や「あべのハスカル」の成功が大阪全体の繁栄につながる、と言うのと同じことだ。

 だが、いまは違う。人口減少時代の都市は「ゼロサム」あるいは「マイナスサム」状態にあることを忘れてはいけない。ある拠点地域への集中投資が周辺地域にも恩恵を及ぼすどころか、逆に周辺地域を衰退させる原因に転化しているのである。ある購買圏の限られた消費者を対象にして成立していた商店街が、近くに出店した大型スーパーに客を奪われて消滅していく事態がこのことをリアルに象徴している。(つづく)