泉北ニュータウン再生のカギは、単機能の「住宅都市=ベッドタウン」を職・住・遊・学が有機的に結合する“モザイク都市(化)”にすることにある、堺市長選の分析(その30)、改憲勢力に如何に立ち向かうか(60)

 いまから半世紀前、高度成長時代の絶頂期(1960年代)に泉北ニュータウンは開発された。そのとき大阪府企業局の依頼でそのマスタープランづくりに携わったのが、京都大学建築学教室の西山研究室である。当時、西山研究室では千里ニュータウンの追跡調査(計画通りにいっているかどうかをチエックして手直しをすること)をするグループと、泉北ニュータウンのマスタープランをつくるグループに分かれていて、助手の私が千里ニュータウン、別の助教授が泉北ニュータウンを担当していた。

 ニュータウンの計画コンセプトはもともとイギリスで生まれ、戦後の労働党政権のもとで大々的に実施された大都市抑制策に由来している。果てしなく成長を続ける大都市(ロンドンなど)の膨張を抑制し、大都市の過密と混雑を緩和するため、大都市周辺にグリーンベルトを配置して開発を禁止する。そして、その外側に職住機能を兼ね備えた「独立した新都市」を建設し、大都市の「溢れ人口」を吸収して大都市の膨張を抑制する。これがニュータウン開発のコンセプトであり目的だった。

 このため、私たちは大阪府企業局の職員たちと共同の勉強会をつくって、イギリスのニュータウンに関する外国文献を片っ端から読んだ。だがそこで分かったことは、日本のニュータウン開発の目的がイギリスとは相当(全く)違うということだった。日本でのニュータウン開発の目的は、大都市の抑制にあるのではなく、大都市の成長を促進するためだった。イギリスでは「ブレーキ」をかける役割のニュータウンが、日本では逆に「アクセル」の役割を期待されていたのである。

 だから千里・泉北ニュータウンのマスタープランづくりでは、職場(工場、オフィスなど)の検討は初めから問題外とされ、大阪の都心に通勤するための「住宅都市=ベッドタウン」をつくることが主要課題になった。かくして当時(いまも)の支配的な計画理論であった「近隣住区理論」(居住地の基礎単位として小学校と近隣商業センターを核にした近隣住区を形成し、その住区を積み重ねて新都市をつくる)にもとづき、整然とした「日本型ニュータウンベッドタウン」が誕生したというわけだ。

 それでもニュータウンは、大都市の膨張期にあってはそれなりの歴史的役割を果たしてきたように思う。近代化はイーコール都市化であり、都市化の原動力は工業開発と宅地開発だと信じられていた当時の日本では、大都市を抑制するという考えがそもそも存在しなかった。だから、大都市周辺に無秩序に広がる「スプロール開発」(虫が葉っぱを喰い荒していくような無秩序な開発)も当初は問題視されなかった。大阪市を取り巻く衛星都市は、その全てが「スプロール開発」によって出来上がったと言っても過言ではない。

 そのなかで、千里・泉北ニュータウンは燦然と輝く金字塔だった。スプロール開発の「海」に浮かぶ「計画の島」と称賛され、その居住空間の質は群を抜いていた。ニュータウン住民が「団地族=ダンチ族」として若いカップルの憧れの的になり、団地住宅の入居応募率が数十倍に達することも珍しくなかった。だが人気タレントの口真似ではないが、「しかし、それから数十年!」である。

 泉北ニュータウンの特質は、周辺から独立した「新都市」として開発されたこと、一般市街地のような用途混合型の土地利用ではなく、居住用途に特化した「住宅都市=ベッドタウン」として計画されたこと、大阪都心への「通勤基地」として開発されたことなどである。これら泉北ニュータウンの特質は高度成長期には大いにその効果を発揮したが、時代が変わって大都市が「成熟=縮退の時代」に入ると、その「計画された都市」のゆえに時代の変化についていけなくなったのだ。もっと言えば、成長時代のニュータウン計画のコンセプトが成熟時代のまちづくりを妨げる要因に転化したのである。

 周辺から独立した「新都市」として開発されたことは、堺市全体の都市構造からみれば泉北ニュータウンが“異質”の状態にあることを意味する。居住用途に特化した「住宅都市=ベッドタウン」として計画されたことは、それ以外の都市機能(職・遊・学など)を排除して都市の進化を妨げる。大阪都心への「通勤基地」として開発されたことは、堺市民としてのセンスが薄い「大阪市民」を大量に生みだすことになったからだ。

 本来、まちづくりは柔軟なものでなければならないはずだ。だが、「ハコモノ」中心の都市計画や住宅計画はいったんつくってしまうとそれを変えることは容易でない。まして「ニュータウン」といった大規模開発になると、コストのうえでも計画コンセプトのうえでも大胆な再生計画を打ち出すことは至難のことだ。こうして時が流れ、現在までに至ったのであろうが、このままでいけば泉北ニュータウンの衰退は避けられない。さてどうするのか、次回にその方法を考えてみよう。(つづく)