泉北ニュータウンの再生にためには、住民の“まちづくりマインド”を育てることが先決だ、そのためには“まちづくりコーディネーター”の発掘と養成から始めよう、堺市長選の分析(その31)、改憲勢力に如何に立ち向かうか(61)

 泉北ニュータウンの再生が容易でないことは誰もがわかっている。これまで出てきたアイデアは、せいぜい空き家対策をどうするかといったレベルのものでしかなく、そんな程度のことを寄ってたかって議論しても多寡が知れている。問題は、中長期的に考えたときにニュータウンをどうするかということであり、そのための切っ掛けをどうつくるかということなのである。

 間違ってもしてはならないことは、こんな場合の常套手段である「学識経験者」による検討委員会をつくるとか、「住民代表」による形式的な会合を開くとか「形」だけの議論で済ませないことだ。検討委員会のメンバーを決めて定期的に会議を重ねれば、何か良いアイデアが出てくるとか、いい方法が見つかるとかいった期待や幻想はこの際一切持たないほうがよい。事柄はそんな簡単なことで解決するような問題ではないからである。

 大切なことは、ニュータウン住民の一人ひとりに「泉北ニュータウンはこのままでよいか」といった基本問題を投げかけることであり、そのために必要な自由な討論の場(フォーラム)をつくることだ。答えを初めから求めるようなことはしてならないし、形式的な議論のまとめを並べるのも無意味だ。「どうしますか」という議論の投げかけが重要なのであり、継続的な議論のプロセスを通して住民のニュータウンに対する関心を高め、意識の変革を呼び起こすような“仕掛けづくり”が必要なのである。

 この場合に決定的に重要なのは、柔軟な思考能力のあるコーディネーター(議論の世話役・まとめ役)の存在だろう。かっての都市計画のプランナーの役割は、有能な「図面屋」であればよかった。加えて良心的なプランナーであれば、幾つかの案を提示して住民の意見を聴くという民主的な方法がとられた。しかしその場合でも、専門家が「主体」で住民が「客体」であることには変わりない。だがすでに出来上がったニュータウンの再生は、そこに住んでいる住民がまちづくりの「主体」にならない限り実現できないのであり、そしてこの新しい「主客転倒」システムを支えるのが、“まちづくりコーディネータ―”なのである。

 まちづくりコーディネーターは、古い意味での都市計画の専門家である必要はさらさらない。役所でいえば「事務屋」「技術屋」の枠にとらわれず、役所と民間の関係でいえば、適当な人材がいれば官民の区別なく登用すればよいのである。都市やニュータウンの再生は、専門的な知識を必要とする計画図の作成や手直しが主たる仕事ではなく、住民の“まちづくりマインド”の養成が一番大切な仕事になるからである。そのためには人の心を読み、人の気持ちに寄り添い、多彩な(交錯する)意見を調整しかつ集約できる柔軟な思考能力を持った新しい人材が必要なのである。

 ここまで書いてくると、読者の方々は私がニュータウンの再生に関して必ずしも特定の「空間イメージ」にこだわっていないことに気付かれるだろう。私自身は、もちろん単能型の「住宅都市」を職住遊学が調和する「モザイク都市」に変えていくことが必要だと思っている。たとえば「住居専用区域」のなかに素敵なマスターやママがいる「コミュニティ食堂」や「コミュニティカフェ」をつくって、そこに集まる人たちの輪が“滲みだす”ように周辺一帯に広がっていく光景など思い浮かべるだけでも楽しい。しかし、それはあくまでも外部の人間の単なる着想であって、ニュータウンに住む人たちにとっては縁遠いアイデアであるかもしれない。もし住民が本気で自分たちの住むまちのあり方を考えるようになれば、もっと豊かで多彩なアイデアが出てくるだろうから、外部の人間が特定の「空間イメージ」を押しつけない方がよいと思うのだ。

 こうしたまちづくりの考え方は、これまで図面を広げて設計図を引いてきたプランナーや建築家に対して相当な違和感を与えるかもしれない。でも“部分から全体へ”まちづくりを進めていく都市の成熟時代においては、このシステムは旧市街地の再生においても、またニュータウンの再生においても極めて有効な手法であることはすでに多くの都市で実証されている。もはや時代の趨勢(すうせい)だと言ってよいのであるから、建築家やプランナーはまちづくりコーディネーターがまとめた住民の合意事項を図面化する“後方部隊”の役割を担えばよいのである。

 こうなると、それではまちづくりコーディネーターをいったいどこから発掘してくるのか、という問題に突き当たる。おそらく役所のなかにも民間にもこのような人材はすぐには見つからないだろう。ここで私が注目するのが、今回の堺市長選で維新の得票源となった“中間層”の存在である。(つづく)