番外編、『神戸百年の大計と未来』(晃洋書房、2017年)の出版後日談、身辺雑話(2)、改憲派「3分の2」時代を迎えて(その125)

話は少し以前に遡るが、今からちょうど1年前に神戸市政を総括した『神戸百年の大計と未来』を神戸在住の友人3人とともに出版した。出版社は、学術書を広く手がけている京都の出版社・晃洋書房。350頁余のかなり分厚い本なので定価が相当高くなり、出版社が「このままでは売れない」というので思い切って3千円ぐらいまで下げた(印税ゼロはもとより、著者たちが逆に出版社に金を出して)。ところが、それでも売れないのである。

神戸市政に関する本を出版するのは、今回が初めてではない。阪神・淡路大震災の翌年に神戸の都市計画決定(震災発生から僅か3カ月後)を批判した『震災・神戸都市計画の検証』(自治体研究社、1996年1月)と5年後にその詳細を論じた「阪神・淡路大震災における震災復興都市計画の検証―20世紀成長型近代都市計画の歴史的終焉」(原田純孝編著、『日本の都市法Ⅱ、諸相と動態』、東大出版会、2001年5月に所収)、そして神戸市政の体質を歴史的に論じた『開発主義神戸の思想と経営―都市計画とテクノクラシー』(日本経済評論社、2001年10月)などがある。それからしばらく間を措き、満を持して出版したのが今回の『神戸百年の大計と未来』というわけだ。

私が神戸市政と関わったのは 今から50年前の原口市長・宮崎助役の時代からだ。それ以降、様々な研究活動や市の審議会委員として神戸市政に関わってきた。半世紀以上にわたる神戸市政との関わりを通して書いたのが今回の出版だったが、神戸新聞が立派な書評を書いてくれた割には売れ行きが芳しくないのである。神戸での出版記念会は昨年8月、討論会は今年5月にそれぞれ開いたが、本の売れ行きはいっこうに伸びない。我々の本の出来が悪いのか、それとも神戸市民は市政に関心がなく市役所に任せきりなのか、その市役所の職員は今までの市政に反省がないのか、あるいはほかに原因があるのか...いろいろ考えてみたが答えが出てこない。

そこで、今年5月の討論会に報告した出版趣旨のレジュメを再掲し、改めて原因を考えてみることにした。以下は、そのレジュメの「ポスト宮崎市政に向けて〜いま考えること、為すべきこと〜」の要旨である。
(1)はじめに、『神戸百年の大計と未来』をなぜいま書いたのか
神戸にとっての2010〜2020年代は、神戸港開港150年、市政施行130年、神戸都市計画策定100年、戦災70年、阪神淡路大震災25年という歴史的画期を迎える節目だ。現在は「成長と拡大の時代」から「縮小と成熟の時代」への歴史的移行期、折しも平成時代(1989〜2018年)は終わり、「ポスト平成時代」(2019年〜)に変わろうとしている。この節目に宮崎市政を批判的に継承し、「ポスト宮崎市政」への転換を図ることは、神戸市民と神戸市政に課せられた歴史的課題ではないか。本書は「批判の書」ではなく「再生の書」であることを心掛けた。
(2)神戸のいま、輝ける都市から黄昏の街へ
神戸はいま、「輝ける都市」から「黄昏の街」へ変貌しつつある。インバウンド(訪日外国人旅行者)が素通りする街になったのだ。海上都市(ポートアイランド六甲アイランド)の空洞化、郊外ニュータウンのオールドタウン化、新長田駅前再開発地区のゴーストタウン化はその象徴である。
(3)「計画され過ぎた」都市、神戸の悲劇
神戸市政ではいまだに高度成長時代の開発主義・拡大主義の伝統が拭いきれていない。肥大化した市役所機構の下で計画万能主義のテクノクラート行政の継続し、計画官僚が市全体を支配している。しかし「開発」と「再開発」だけでは街は再生しない。市民の「暮らしの文化」に根ざした都市の「自然成長力」が基本であり、そこから滲み出る「街の佇まい」が都市の光景を形づくるのである。これをいかに育てるかが、これからのカギとなる。神戸は都市の成熟段階に入った。都市発展のサイクルには、成長、成熟、衰退、再生・成熟の4段階がある。成熟段階の都市に求められるものは、「自然成長力=持続力」(サステナビリティイノベーション)の涵養であり、「まちなか文化」の再生である。そのカギは「都市内分権」と「市民力」にある。
(5)神戸はどんな街か、国際港を核とする近代都市・急進都市
神戸は近代都市計画のトップランナーだ。神戸は「官主導」により近代都市の形成(都市計画)に成功し、効率的な都市経営によって驚異的な都市成長を遂げてきた。市人口は神戸開港から僅か20年で人口は全国第5位、半世紀で全国第3位の急成長を遂げたが、急激な人口流入が狭隘な市街地と摩擦を引き起こし、都市問題の激化が周辺町村大合併による市域拡張、「大神戸」への動きへとつながった。
(6)「大神戸」構想の背景と推進力
「大神戸」構想の原点は大正期の都市計画。関市長の「大大阪」の向こうを張って斎藤千次郎(日本船舶協会理事)が「大神戸計画意見」をぶち上げ、勝田銀次郎(船舶業、後の神戸市長)が「大神戸市論」を展開した。戦時中には、野田文一郎市長が戦時体制に呼応する「大港都神戸建設計画」「神戸大本営移転構想」を構想し、戦時体制便乗型計画の嚆矢を放った。このとき、戦後の公共デベロッパー方式に連なる「不動産資金特別会計」が創設された。
(7)戦禍の中での戦後高度成長型都市計画を布石
「大神戸」構想を下敷きにした神戸市戦災復興計画は、戦後高度成長型都市計画の原型だった。戦後神戸を牽引したのは、2人のテクノクラート市長、豪放なカリスマリーダーの原口忠次郎(土木工学者)と市生え抜きの都市官僚・宮崎辰雄だった。20世紀の神戸を方向づけた1965年マスタープラン・マスタープランは「一つの哲学である」と権威付けされ、神戸市政の教本となった。神戸を西日本経済・瀬戸内経済の中枢拠点として発展させようとする1965年マスタープランは、1974・75年世界同時不況によって修正を余儀なくされたが、「大神戸」構想とマスタープラン行政はその後も変わらなかった。
(8)市役所一家体制の形成と桎梏
2人のテクノクラート市長による異例の長期政権(8期)は、その後も助役出身市長体制の継続によって70年余も続き、「市役所一家体制」の形成と官僚主導行政が定着した。神戸市政の特徴は「民主主義なき近代主義」と称され、市議会のオール与党化(共産党を含む)と労使協調体制が完成した。市民団体・業界団体・労働団体も系列化され、審議会メンバーの有識者も固定化されて知識人の系列化も進んだ。
(9)阪神・淡路大震災時におけるショック・ドクトリン型復興計画の展開
震災を「千載一遇のチャンス」とする都市計画決定が強行された。下河辺委員会による震災便乗型復興計画策定の下で、貝原兵庫県知事の「創造的復興」をスローガンとする被害総額をはるかに上回る巨大インフラ事業が計画され、事業化された。市民の反対を押し切って神戸空港建設が着工され、ポートアイランド第2期(医療産業都市)や新長田南再開発事業など巨大プロジェクトが次々と実行に移された。だが、人口減少時代の到来という時代の趨勢を読み誤った震災関連プロジェクトは、膨大な借金財政の肥大化を招き、職員の3分の1(7000人)をリストラするという荒療治に終わった。背景には、職員大リストラに手を貸した労組幹部の癒着と妥協があり、「元気が出ない症候群」が蔓延する行政現場があった。
(10)ポスト平成時代、ポスト宮崎市政に向けての3つの課題
・まず何よりも、「市役所一家体制」の刷新による行政組織の活性化が挙げられる。それには、市民参加の推進による市役所中央集権的機構の分権化すなわち区役所への行財政権限の移譲や区長準公選制の導入が不可欠だ。「まちづくり議会」を創設し、「まちづくりNPО」による政策提案権の保障および支援制度の確立することも必要となる。各分野の「市民政策委員会」(オンブズマン)の立ち上げによる市政点検および政策提言や審議会メンバーの刷新による新政策の展開も望まれる。
・ポスト平成時代のシンボル事業の展開が必要だ。時代の変わり目である「成長と拡大の時代」から「縮小と成熟の時代」への移行を象徴する「シンボル事業」の立ち上げ、「ポスト平成時代の神戸を考える」ミーティングを各行政区で開催する。市民提案の中から選ばれた「シンボル事業」を各行政区で具体化し、実行委員会を結成して推進する。「ポスト平成時代」という新しい時代に「ポスト宮崎市政」という新しい市政を市民とともにつくり上げる。
・全国の話題になるような神戸型プロジェクトの提起が必要だ。2020年東京五輪に全国が席巻されるなかで、神戸は「ポスト宮崎市政」を印象づけるシンボル事業に取り組む。たとえば、ゴーストタウン化した長田南再開発事業の「再・再開発」や空き商店街の都市ホテルへ転換、多国籍型大学の誘致による学生街への転換など。(つづく)