「神戸市役所一家体制=市役所共同体」の特性と機能、「神戸市政を市民の目線から考える連続シンポジウム」の広原報告から、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その8)

 昨年6月から12月にかけて、阪神・淡路大震災以降、神戸市の震災復興計画を批判してきた市民グループによる「神戸市政を市民の目線から考える連続シンポジウム」(3回)が開かれた。私もシンポの企画に関わった1人として、第1回シンポ(2014年6月7日)の報告を引き受けた。第1回のテーマは「阪神・淡路大震災20年と神戸市政―神戸市役所を解剖する―」というもの、私の報告は「震災20年、神戸市役所共同体はいかに機能したか」である。

 報告は2つからなる。第1は「神戸市役所一家体制=市役所共同体」の定義を示したもので、市役所共同体の基本構造とその体質について述べた。第2は、全国に数ある市役所共同体のなかでも際立った特色を持つ「神戸市役所共同体の特異性」を分析した。以下はそのレジュメ(一部省略)である。

【報告要旨】
「震災20年、神戸市役所共同体はいかに機能したか〜神戸市政とかかわった私の体験を織り込みながら〜」

1.神戸市役所共同体とは
 神戸市役所共同体(以下、市共同体という)とは、「市役所一家体制」「市役所利益共同体」「市役所ムラ」との別称にもあるように、市民に服務しなければならない官僚組織が実質的に神戸市政を支配することにより、市民の利益(公共の福祉)よりも官僚組織の利益を上位に置く行政システムのことである。市共同体は次のような基本構造(組織的体質)をもつ。

(1) 官僚支配体制の確立
官僚組織が定型・非定型を問わず自治体運営の指導権を実質的に掌握している。官僚組織が議会、市民・住民団体、業界団体、労働団体など関係組織の頂点に立ち、上からの指示命令系統が庁内外で有効に機能している。関係組織にはそれぞれ市役所のエージェント(代理人)ともいうべきキーパーソンが審議会・委員会メンバーや労組代表などとして配置され、指示命令を伝えるパイプ役を果たしている。

(2) テクノクラートイデオロギーの浸透
 官僚支配を支えるイデオロギーが庁内外に浸透している。テクノクラート主義と言われるこのイデオロギーは、民衆(市民・住民)に対する官僚の権威主義的な牧民官思想(パターナリズム)およびエリート意識を背景にして、議会を特定利益・部分利益の代表集団と見なすことにより、官僚組織(こそ)が全体利益・普遍価値を代表する中立・公正・専門的職能組織だと位置づけて官僚支配を正当化する。

(3) 開発主義、経営主義に基づく行動原理
 自治体運営の基礎が開発主義、経営主義に置かれている。地方自治法が依拠する憲法理念の遵守、公共福祉の追求、住民自治や地域民主主義の実現よりも、行政目的が公共デベロッパー方式による都市開発・インフラ整備に設定され、経済成長と財政効率を重視する経営手法が重視される。高度成長時代に形成された政策体系がいまだ形を変えて(あるいはそのままの形で)継承され、阪神・淡路大震災以降も基本的な政策変更が行われていない。

(4)庁内ヒエラルキーとメリットシステムによる組織統合
 官僚支配を円滑に機能させるための上意下達制・ヒエラルキーシステムが庁内に確立され、かつそれを担う人材養成・登用システム(メリットシステム)が整備されて強固な組織統合が実現している。組織階梯の最上位に位置する市長が助役出身あるいは天下り官僚であることは組織統合をより一層効果的に機能させ、官僚組織のモチベーションを高める。

(5)「市役所=お上」意識の根強い残存
 神戸市民の間にはいまだ「お上」意識が根強く残存している。戦前からの役所・役人に対する権威主義的観念が一掃されず、戦後においても補助金行政への依存や広報体制の強化によってむしろ拡大されてきている。「お上」意識は自治体によって様相が異なり、大阪では市役所への「反発と無関心」という裏返し感情が底流にあり(橋下ブームの社会的基盤)、京都では「付かず離れず」といった権力への冷めた態度が支配的であるが、神戸では市役所への素朴な「期待感と信頼感」が高い。

2.神戸市役所共同体の特異性
 市役所一家体制は全国的にも同様の事例が見られるが、神戸市の場合は市共同体の存続期間が半世紀を超えるという超長期にわたり、かつ革新政党までがその下部組織として密接に取り込まれていた点に際立った特異性がある。このことは革新勢力が現在に至るもその影響下から離脱できないところにあらわれており、市共同体はいまなお影響力の強い「現役システム」として機能している。市共同体の強靭な持続性は、次のような歴史的背景に裏打ちされている。

(1)「革新市長」の誕生
神戸市共同体の基礎は原口市長によって築かれ、宮崎市長によって完成させられた。原口市政の後継として1969年に誕生した宮崎市政は、発足当初から環境破壊や財政難など前市政の後始末に奔走しなければならない立場にあり、また一方では神戸沖の関西新空港建設問題への対応を迫られていた。しかし宮崎市長は再選(第2期)のために本意に反して空港建設反対を表明することを余儀なくされ(後に「一生の不覚」「生涯の誤り」と後悔した)、73年市長選において共産党を含む全野党統一候補となり、「革新市長」が誕生した。「革新神戸市政」という錦の御旗は、革新政党・革新勢力が市共同体に包摂される政治的契機となりかつ大義名分を与えた。

(2)「共産党を含むオール与党体制=翼賛体制」の超長期化
宮崎市政の本質が原口市政を上回る開発行政の推進にあることを見越した自民党が73年市長選の翌年の当初予算から賛成に回り、それ以降、阪神・淡路大震災後の97年市長選において共産党が与党を離脱するまで、宮崎市政(第2期〜5期)および笹山市政(第1期〜2期)の計6期・24年間にわたって、神戸市政は自民党から共産党までの全会派が与党を構成する文字通りの「オール与党体制」の下にあった。これだけの超長期にわたって「共産党を含むオール与党体制=翼賛体制」が継続したのは、神戸市を除いて全国に類を見ない。

(3)市共同体への包摂
 四半世紀を超える「オール与党体制=翼賛体制」の下で保守・革新の垣根が溶解し、政党間の癒着、議会と行政の馴れ合い、労使一体化が常態化した。市政運営の実権を官僚組織(テクノクラート集団)が握り、議会は官僚が提案する議案の追認機関と化した。その象徴が1982年および90年市議会における共産党を含む神戸空港推進の全会一致決議である。こうして市民・住民団体、業界団体、労働団体など関係組織(研究者でさえも)の系列化が進み、それに応じた利益配分機能が整備されて、市共同体への包摂が完成した。

(4)阪神・淡路大震災の衝撃
 1995年初頭の阪神・淡路大震災は、被災者救済よりも神戸空港建設をはじめとする開発行政を復興計画の上位に置く市共同体の素顔を余すところなく暴露した。復興都市計画(再開発や区画整理)や空港建設に反対する市民運動が激化するに及んで、もはや革新政党が市共同体の傘の下にいることが許されなくなった。社会党から新社会党が96年に分裂し、97年市長選では共産党対立候補を擁立して市共同体からついに離脱した。しかしそれはあくまでも組織上の話であって、長年続いた市共同体内部の人間関係は変わらなかった。「組織はひと」である以上、「ひと=人間関係」が変わらなければ組織を変革することは至難の技であるからである。

(5)官僚組織の裏部隊、神戸市労連の役割
 社会党共産党など革新政党の支持母体とされていた労働団体とりわけ神戸市職員と従業員で組織される市労連は、阪神・淡路大震災後も市共同体から離脱しなかった。それどころか市労連はそれ以降、市共同体から離脱した革新政党を繋ぎ止める「裏の部隊」「影の部隊」として活躍するようになった。長年の労使一体関係の中で育てられた市労連幹部は、市共同体の存在が彼らにとっての「権力への近道」であることを熟知しており、その中の一部は「影の助役」「第3助役」といわれるまでに影響力を発揮するようになっていたからである。彼等の役割は近年の市長選において官僚候補の擁立を積極的に動くなど(革新政党への根回しを含めて)、市共同体の実質的な行動部隊であることを遺憾なく証明している。

 この報告の意図するところは、これまで「スマートな外装」で覆われてきた神戸市政の内実を知るうえで欠かすことのできない「市役所一家体制=市役所共同体」の存在と機能を分析しようとするものだ。そこには、阪神・淡路大震災に際して神戸市が被災者救済を後回しにしてなぜ都市計画決定を強行したのか、震災20年後の現在においても官僚主導の神戸市がなかなか復興できない秘密が隠されている。(つづく)