神戸市の「(共産党を含む)オール与党体制=市役所一家体制」は如何にして形成されたか、宮崎市長の関西空港神戸沖建設反対声明(1973年)が「保革」を逆転させ、神戸市議会の神戸空港推進全会一致決議(1982年)が「保革」を溶解させた、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その7)

 順風満帆だった宮崎市政に一大波乱が起こったのは、関西新空港の神戸沖建設問題への対処だった。神戸沖空港建設は神戸市政の悲願だったが、1970年代初頭は伊丹空港の騒音裁判を初め各地で公害反対運動が高揚しており、神戸市議会でも自民党(与党)を除く社会・公明・共産各党(野党)が「空港建設反対決議」を可決するなど否定的な空気が強かった。宮崎市政2期目の73年市長選は、空港建設問題を争点にした宮崎市長(反対)と自民党候補(賛成)の対決選挙になり、「保革」の構図が逆転した。当時は「公害反対=革新」、「開発推進=保守」という色分けだったので、空港反対を掲げた宮崎市政は「革新市政」とみなされることになったのである。

 こうして宮崎市政は2期目から「革新市政」としてスタートすることになるのであるが、宮崎市長はもともと市民参加や議会制民主主義(デモクラシー)よりも行政主導のトップダウン行政(テクノクラシー)を重視する人物だったので、「保革」という色分けはあまり大した意味を持たなかった。要は、首長と官僚がしっかりさえしていれば、(議員などいなくても)自治体行政は円滑に機能するとの信念の持ち主であり、またそれを実践してきたベテランでもあるので、議会構成における「保革」の逆転などあまり意に介することがなかったのである。

 しかし、空港反対運動を契機にして「革新市政」を誕生させた革新勢力の側はそうはいかなかった。宮崎市長の本心が「空港推進」であり、「空港反対」は市長選に勝つための方便であることを重々知りながら、それでいて「革新市政」という看板を掲げ、「革新与党」として活動することを政治的に重視する立場から、急速に「宮崎シンパ」としての姿勢を強めていくことになるのである。宮崎市政の内実はともかく、与党の立場を維持することの方がさまざまな面で「メリット」が大きいと考えていたからだろう。

一方、空港問題で対立した自民党は、宮崎市長の本心や本性を熟知しているので間もなく与党に復帰するが、革新勢力がそのことを問題にして野党に戻ることはなかった。その理由は表向き「自分たちが野党に戻ると宮崎市政は保守市政になる」というものだったらしいが(現在の公明党が言う「連立与党から離脱すると自民党の歯止めがなくなる」というのとそっくり!)、何のことはない、「革新市政」「革新与党」という体裁が欲しかったのだ。しかし宮崎市政への革新勢力の包摂(抱き込み)が進んでくると、今度はそんな体裁に構うことなく今までの政策を臆面もなく変更するようになる。「(共産党を含む)オール与党体制」は、82年の神戸市議会全会一致の「神戸空港推進決議」を契機にして成熟(完熟)の域に達し、そして「保革」のカベは完全に溶解するのである。

革新勢力がかくも易々と宮崎陣営に加わり、そして97年市長選挙で離反するまで24年間の超長期にわたって「オール与党体制」のなかに安住してきた原因はなにか。原因は数々あるが、なかでも大きいのは、市当局と市職員労働組合(市職労・市労連)との一体化が基礎部分にまで深まったことがある。労組幹部と当局の癒着はどこでもある現象だが、神戸市の場合はそれが末端職員にまで浸透しているところに他の自治体では見られない特徴があるのである。

本来の自治体公務労働は、「市民、住民の幸せのために働くこと」を目標に掲げ、労働組合も日々そのために奮闘しなければならないはずだ。当局の方針が間違っていれば批判してこれを是正させ、市民・住民の要求に応えることが公務労働者の任務であり、労働組合の役割であるはずなのである。地方公務員法第30条にも「すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当っては、全力を挙げてこれに専念しなければならない」と規定されている。

だが当局と労組の人間関係(癒着)が進んでくると、「全体の奉仕者」がいつも間にか「当局の奉仕者」になり、当局命令と労組方針の区別がつかなくなるようなことが起こる。これは後述するが、阪神・淡路大震災後2ヶ月の時点で当局が都市計画決定を強行したとき、市役所に抗議に訪れた被災者たちの前に立ちはだかったのが都市計画局職員であり、市職労の労組員だった。またこのことを書いた私の論説に対して真っ先に抗議してきたのは、当局ではなく市職労土木支部の書記長だった。ちなみに宮崎市長の後継者である笹山市長は市職労土木支部支部長の経歴をもち、現在の市労連委員長は震災後も一貫して当局決定を擁護し続けている(東電労組が福島原発災害後も原発再稼動を主張しているように)。

神戸市の市会議員とりわけ革新政党の市議には、市職員出身(すなわち市労組出身)が多い。市政に精通しており、当局との人脈もあるので重宝な人材なのだろう。だが市職員・市労組員時代から当局の方針に疑問を持たず、市会議員になってからは「オール与党体制」のなかで議会活動を行うようになると、市民・住民の姿は見えなくなる。神戸市における市当局・市労組・市議会三位一体の「市役所一家体制」は30年近くにわたって熟成され、そしていま現在も市政基本システムとして機能している。(つづく)