森友学園「疑惑」はいまや森友学園「疑獄事件」へと発展しつつある、籠池理事長の証人喚問は「口封じ」のためか、それとも事態解明につながるのか、国民世論は「脱安倍」へと着実に向かい始めた(16)、改憲派「3分の2」時代を迎えて(その47)

 3月16日の参院予算委員会森友学園現地調査で、「なにか面白いことが起るかもしれないよ」と大阪の友人が教えてくれた。その意味が分からない私に対して、友人は「何が起こるか分からないところが面白いのじゃないか」と回答をはぐらかしたが、まさか、それが「安倍首相が100万円を寄付した」という籠池理事長の爆弾発言になるとは思わなかった。

 籠池発言の真偽は別として、首相を名指ししての発言は安倍政権にも衝撃を与えたらしく、菅官房長官は即刻記者会見を開き、首相も夫人も第三者を通じても寄付した事実はないと否定した。しかし、それだけでは収まらなかったのか、これまで参考人招致でさえ拒否してきた自公与党の国対委員長が、3月23日に急転直下「証人喚問」に踏み切ることが判明した。驚くべき事態の急変ではないか。

 世間相場では、参考人招致の方が証人喚問よりも通常「ゆるい」と思われている。参考人招致だと出席を断ることもできるし(現に籠池理事長は大阪府議会の参考人招致を断った)、参考人が事実と異なることを言っても罰せられることはない。籠池理事長のような鉄面皮の人物には、参考人招致など痛くも痒くもないのである。しかし、証人喚問の方は正当な理由なくして出席を断ることはできないし、事実と違うことを言えば偽証罪で訴えられる。これまで国会で証人喚問がなかなか実現しなかったのは、事実の解明を恐れる政治勢力がそれを阻んできたからである。

 ところが摩訶不思議なことに、自公与党がかねてから警戒してきた「何を言い出すかわからない」籠池理事長のような人物を一転して証人喚問することに踏み切った。竹下自民党衆院国対委員長は「首相が侮辱されたことを看過することはできない」などと言っているが、本当のところは籠池理事長にこれ以上の発言をさせないための「口封じ」に出たのではないかと私は思っている。偽証罪を口実にして籠池理事長に発言を委縮させる、あるいは些細な発言ミスを引き出して起訴に持ち込み、本人を拘留して物理的に発言を封じる。そうすれば、一連の騒動に終止符を打てると踏んでいるのだろう。

 だが、こんな考え方は甘いのではないか。安倍夫妻や稲田防衛相と籠池理事長やその妻との関係は、日本会議などの右翼人脈を通して密接なものがあったのであり、いまやその関係はテレビ番組や週刊誌などのメディアによって広く国民全体に知れわたっている。また、森友学園幼稚園にみられるような戦前教育への回帰が、安倍首相の「お薦め」「お好み」であり、昭恵夫人が認可予定の小学校の名誉校長に就任したのもその教育理念に「共鳴」したからであることも、国民はよく知っている。だから、多少の「口封じ」を講じたところで、今度は籠池夫人がそれを上回るスピーカーとなって大阪中あるいは日本中に触れ回ることになれば、事態がもっと拡大していくことは間違いない。

 いま国民が何よりも知りたいのは、なぜ国有地がかくも法外な安値と異常なスピードで森友学園に払い下げられたのか、なぜ財務省にその経過を記した記録がないのかという、通常は「あり得ない」事態の解明である。この深刻な疑惑が解明されない限り、安倍政権がどのように関係者の「口封じ」をしても、またどのように「疑惑の蓋」をしても国民の疑いは晴れず、安倍内閣の支持率は遅かれ早かれ低下していくことは避けられない。また思わぬところから真実が暴露されて、それが安倍政権と財務省を貫く「疑獄事件」であることが判明すれば、安倍内閣はもとより自公与党体制そのものが崩壊する恐れもある。

 加えて、森友学園疑惑には松井知事をはじめ「維新の会」が相当絡んでいることも疑惑を二重三重に深めている。松井知事はもっぱら国(財務省)が率先してこの話を持ち掛けてきたと目下「火の粉」を振り払うのに懸命であるが、このほど大阪府が近畿財務局と協議した記録を「残していない」ことが府の内部資料からも判明した(毎日新聞、2017年3月16日)。これは、財務省理財局が交渉記録を一切残していない(破棄した)ことと同じ構図であり、事態を隠蔽しようとするものだと疑われても仕方がない。関係記録を隠蔽するこのような構図は、それが残しては困るような胡散臭い協議(交渉)記録であったことを示す以外の何物でもなく、「どこかからか出てくる」ようなことでもない限り国民の疑惑は永久に解消しないだろう。

 安倍政権は、もはやこれだけの国民的関心事になった疑惑を自分たちの思惑で幕引きできるなどと思わないことだ。事態は、もはや隠せば隠すほど国民の疑惑は大きくなるという「負のスパイラル」状況に入っているのであり、どこでそれを断ち切るかという決断をしない限り、政治生命を維持することができないところまで来ている。だが「安倍1強体制」はそんな自覚もなければ、「身を切る覚悟」も示すことができない。「行き着くところまで行くほかはない」のが安倍政権の運命なのだろう。(つづく)