政党は国民と市民社会の中に存在している、別世界にいるのではない、共産党党首公選問題を考える(その1)、岸田内閣と野党共闘(36)

 京都はいま大揺れに揺れている。志位共産党委員長に対する異議申し立てをした松竹伸幸氏と鈴木元氏の二人がいずれも京都ゆかりの人物であるからだ。京都は「大学のまち」であり、蜷川府政の伝統もあってリベラルな知識人が多い。かく言う私もその1人であり、岸田内閣(自公政権)に対する批判では人後に落ちないが、今回ばかりはそれだけではことが済まないような気がする。異議申し立てをした松竹氏が即座に除名され、鈴木氏も遠からず同じ運命をたどると考えられており、その波紋が大きく広がっているからだ。

 

 先日も私たち京童の間では(高齢者集団なので「京童」などいうのはおこがましいが)この問題がもっぱら話題になり、中には「物申す行動」が必要だと息巻く者もいた。一致したのは、世論が圧倒的に「アンチ共産党」に傾いており、このままでいけば、次の選挙では共産党が大きく票を減らすだろうということだ。赤旗は連日「反論キャンペーン」を繰り広げているが、これでは「逆効果」にしかならないのではないか。

 

 この問題を真っ先に報じたのは、毎日新聞(2月4日)の「党員『反旗』揺れる共産、党首公選制の導入訴え、騒動拡大懸念 対応に苦慮」と題する記事だった。趣旨は「現役の共産党員が公然と党首公選制の導入を求め、党内外に波紋を広げている。共産は機関紙『しんぶん赤旗』で反論し、党幹部の中には処分を求める声もある。だが、騒動が拡大すれば支持者離れが起きる可能性もあり、同党は対応に苦慮している」というもの。翌2月5日の赤旗は、匿名コラムで即座に反撃した。

 ――毎日新聞は、4日付の政治面に「党員『反旗』に揺れる共産、党首公選制の導入訴え」という見出しの記事を掲載しました。松竹氏の言動についていえば、1月21日付け論説「規約と綱領からの逸脱は明らか」で指摘したことにつきています。同氏の行動は「党首公選制」なる主張を党内で表明することをいっさいせずに、「公開されていない、透明でない」などと外部からいきなり攻撃するもので、党の規約を踏みにじるものです。(略)「毎日」記事は、根拠も示さず、松竹氏の言動が党内外で「波紋を広げている」などといいますが、いくつかの週刊誌や新聞をのぞけば、波紋など広がっていません。「波紋を広げたい」という記者の願望にすぎません。

 

 しかし、赤旗匿名コラムの「波紋など広がっていません」との「願望」に反して、事態はその後〝炎上〟することになった。リベラルな読者が多い朝日・毎日両紙が、当該問題について社説を出したのがきっかけだった。2月8日の朝日社説は、「共産党員の除名、国民遠ざける異論封じ」との見出しで次のように論じた。

――党勢回復に向け、党首公選を訴えた党員を、なぜ除名しなければならないのか。異論を排除するつもりはなく、党への「攻撃」が許されないのだというが、納得する人がどれほどいよう。かねて指摘される党の閉鎖性を一層印象づけ、幅広い国民からの支持を遠ざけるだけだ。

 

2月10日の毎日社説も「共産の党員除名、時代にそぐわぬ異論封じ」と同様の見出しだった。

――組織の論理にこだわるあまり、異論を封じる閉鎖的な体質を印象付けてしまったのではないか。共産党が党首公選制の導入を訴えたジャーナリストで党員の松竹伸幸氏を除名とした。最も重い処分である。(略)今回の振る舞いによって、旧態依然との受け止めがかえって広がった感は否めない。自由な議論ができる開かれた党に変わることができなければ、幅広い国民からの支持は得られまい。

 

両社説は、党首選は「決定されたことを党員みんなで一致して実行する」「党内に派閥・分派はつくらない」という〝民主集中制〟の組織原則に反するという非合理性についても言及している。

――共産党は、党首選は「党内に派閥・分派はつくらない」という民主集中制の組織原則と相いれないという立場だ。激しい路線論争が繰り広げられていた時代ならともかく、現時点において、他の公党が普通に行っている党首選を行うと、組織の一体性が損なわれるというのなら、かえって党の特異性を示すことにならないか(朝日)。

――共産は党首公選制について、決定されたことを党員みんなで一致して実行するという内部規律「民主集中制」と相いれないと説明する。機関紙「赤旗」は、複数の候補者による多数派工作が派閥や分派の活動につながると指摘した。この独自の原理には、戦前に政府から弾圧され、戦後間もない頃には党内で激しい路線闘争が繰り広げられた歴史的背景がある。だが、主要政党のうち党首公選制をとっていないのは今や、共産だけだ。松竹氏の提案は、「異論を許さない怖い政党」とのイメージを拭い去る狙いがあるという。「公然と党攻撃をおこなっている」との理由で退けて済むは問題ではないはずだ(毎日)。

 

 これに対して、赤旗は猛然と反論キャンペーンを開始する。その主張は2月8日付けの「党攻撃とかく乱の宣言――松竹伸幸氏の言動について」(土井洋彦書記局次長)に代表されるもので、その後一貫して変わっていない。

 ――メディア各社は、(日本記者クラブの)「会見」での松竹氏の発言をひいて、「『党首公選』提唱党員を除名」(「読売」7日付)などと報じていますが、松竹氏の除名処分は、「党首公選制」という意見を持ったことによるものではないということです。自らの意見を、党規約が定めたルールに基づいて表明することを一度もしないまま、突然、党規約と党綱領に対する攻撃を開始したことを、問題にしているのです(抜粋)。

 

 それ以降、赤旗および日曜版に掲載された反論をリストアップすると以下のようになる。

 ・2月9日、「結社の自由」に対する乱暴な攻撃――「朝日」社説に答える(政治部長、中祖寅一)

 ・2月10日、志位委員長の記者会見、松竹氏をめぐる問題についての一問一答

 ・2月11日、日本共産党の指導部の選出方法について、一部の攻撃にこたえて(副委員長・党建設委員会責任者、山下芳生)

 ・同、事実踏まえぬ党攻撃、「毎日」社説の空虚さ(中祖寅一)

 ・2月12日(日曜版)、「異論を持ったから除名」ではない(小池書記局長記者会見)

 ・同、松竹伸幸氏の除名処分について(日本共産党京都南部地区委員会常任委員会、京都府委員会常任委員会)

 ・2月17日、「朝日」コラムにあらわれた〝反共主義という呪縛〟(政策委員会・谷本諭)

 ・2月18日、大手メディアの共産党バッシングをどうみる?(おはよう、ニュース問答)

 ・同(日曜版)、松竹氏をめぐる問題Q&A、志位委員長会見から

 

 共産党の言い分はおよそ次のことに尽きる。

(1)松竹氏の除名処分は、異論を持ったことに対してではなく、党規約に違反する言動をとったことで行われた。

(2)共産党は、党員の自発的意思によって結ばれた自由な結社であり、自主的・自律的な決定に対する外部からの攻撃(批判)は認めない。

(3)党員は、党の民主集中制を組織原則とする規約は守らなければならず、これに反した場合は手続き上も除名に該当する。

(4)共産党指導部の選出方法が一番民主的で合理的である。党首公選制は「ポスト争い」の種になり、派閥・分派をつくる可能性につながる。私利私欲がなく「ポスト争い」とは無縁の共産党には「党首公選制」なるものは合わない。

 

 この言い分は形式論理としては間違っていない。要するに、共産党は党員が自発的に参加している組織だから、その規則に従うのは当然であり、それを破った者が組織から排除されるのも当然、外部からとやかく言われる筋合いはない――ということだろう。だが問題は、政党が単なる同好会やクラブではないということだ。政党は国の政治変革を目指す政治結社であると同時に「公党」といわれる公的存在でもある。共産党は受け取りを拒否しているが、国民の税金によって政党助成金が支給されるのも政党が公的存在であることに基づいている。つまり、政党は国民と市民社会の中の一部分であり、その中に存在しているのであって、それとは別の世界にいるわけではないのである。

 

 まして、一部の革命集団が社会変革を率いるといった事態がもはや過去のものになった現在、政党がその目的を達成するためには、国民と市民社会の常識や合意を尊重しなければならない。また、それなくして幅広い支持を得ることは不可能であり、やがては消滅していく運命をたどることになる。だからこそ、大手メディアをはじめ国民各層の関心がこの問題に集中しているのであって、単なる共産党の「内部問題」だとは見ていないのである。

 

 朝日・毎日両紙が指摘するように、もはや〝民主集中制〟という組織原則が時代遅れになっているのではないか。党内の議論は一切外部に漏らしてはならない、党組織の間で横の連絡も取ってはならない、決められたことだけを忠実に実行する――といった戦時体制下とも見紛う組織原則は、言論の自由と多様性の承認を原則とする民主的な現代社会には合わない。党首公選制が派閥・分派と結成につながるといった主張は「噴飯もの」でしかなく、党員を馬鹿にしたものとしか思えない。全ての権力が「中央」に集中しているピラミッド型組織の頂点からの主張が、国民の理解を得られるとは到底思えないからである。

 

 いま、共産党は存続を懸けた正念場に差し掛かっているのではないか。国民と市民社会の常識から離れた手前勝手な主張に固執してこのまま衰退していくのか、それとも独善的な主張を改めて「国民の党」「市民の党」として再生するのか、その分岐点に立っているのである。市民連合の中心的存在である山口一郎氏が、ツイートで「市民と野党の共闘を言うなら、自らも市民社会の常識を共有する党になる必要がある」と発言している。共産党が態度を改めなければ、市民連合が野党共闘から離れていく日も遠くない。その時、共産党はいったいどんな政権構想を描くというのか。

 

 再び志位共産党委員長に問いたい。志位氏は自らの進退について「政策が正しければ辞める必要がない」と公言している。しかし、政策の正しさは国民が判断するものであって、志位氏が判断するものではあるまい。それが通るようであれば、そもそも選挙で民意を問うことの意味がなくなる。選挙結果は国民の意思であり、政党に対する総合評価なのであって、それを受け入れられないような政党は退場するしかない――、これが大議論した京童一同の一致した意見だった。

 

 松竹氏の除名処分の波紋が余りも大きいせいか、直ぐにでも出されると聞いていた鈴木元氏の除名が発表されないのが気になる。処分が撤回されたのであればよいが、除名しておいて発表を遅らせるといった姑息な対応をとれば、人心は益々離れていく。京都の共産党もまた正念場を迎えている。(つづく)