麻生・小沢党首討論は「やらせ番組」か、(福田辞任解散劇、その14)

 麻生政権の誕生は、もともと物事すべてを「客観的に見る眼がある」と自負する福田前首相が、自分では次の総選挙に勝利できないとあっさりとピッチャーマウンドを降板し、麻生氏にリリーフを託したことに起因している。だから麻生氏は、「国民的人気」のある政治家として選挙用に起用された(ワンポイント)「リリーフ投手」のはずだったのである。だが皮肉なことに、その後の事態は、福田前首相がいかに「人を見る眼」がなかったかを日々証明することになった。町村前官房長官が「これではなぜ福田首相が辞任したのかわからない」と嘆くのも無理はない。

 ところが自民党には試合全般を仕切る総監督がいないのか、それともピッチングコーチが頼りないのか、リリーフ登板した麻生首相が暴投(暴言、失言)に次ぐ暴投を繰り返し、おまけにエラー(漢字の読み違え)の連続で、相手チームはもとより観客席からもブーイングの嵐のなかで立ち往生する始末、とても試合を続行できる雰囲気ではなくなってきた。でも悲しいことに、もはや自公ベンチには「控えの投手」がいない。だから麻生投手を簡単に降ろすこともできず、とにかく時間稼ぎをしながら、「100年に1度の大雨」(金融危機)を口実にして試合をなんとか「コールドゲーム」に持ち込む以外に打つ手がない。ざっとこんなところが現在の政局の動向ではないだろうか。

 しかし問題は観客の気持ちだろう。単なる野球試合だったら大雨の所為でコールドゲームに終わっても仕方ないが、国会政治が舞台だとそうはいかない。大雨でびしょ濡れになって寒さで震えている国民は、いまや一刻の猶予もなく政治のチエンジ(変革)と効果ある政策の出動を求めている。そんな気持ちで先日の麻生・小沢の両党首討論を見たが、結果は正直言って心底がっかりする内容でしかなかった。そこでの「対決討論」は「解散をするかしないか」の押し問答と駆け引きばかりで、いわば「コールドゲーム」にするかしないかの水掛け論にすぎなかったからだ。

 それにしてもここまで雇用情勢が悪化しているのに、自民・民主両党がこの問題と本格的に向き合う政策らしい政策をいまだ出そうとしないことに驚かざるを得ない。現在の政局の焦点とされている補正予算案に関しても、第1次補正予算案には後期高齢者医療制度の延長を前提とした予算措置が含まれているし、第2次補正予算案には国民から総スカンを喰らっている「消費税予約付きのバラマキ給付金」が含まれる予定であるなど、いずれも民主党が反対している施策が盛り込まれている。この中身に目をつぶって「とにかく補正予算案を出せ」の一本やりではあまりにも無節操で芸がないではないか。

 なぜ自民党民主党も現在の貧困と格差の根源である労働者派遣制度を即刻取りやめ、トヨタ自動車をはじめ大企業に多数派遣されている非正規労働者の身分と生活を守ろうとしないのか。また麻生・小沢両氏はどうしてこの問題を党首討論の中心テーマに取り上げ、論戦を交わそうとしないのか。国民の最大関心事を脇に置いて「政権交替」問題だけに討論を集中させるやり方は、党首討論自体が国民が一番切実に求めている雇用・所得の確保に関する要求を逸らすための「やらせ番組」だといわれても仕方がない。政策抜きの「対決」は、結局はどちらが政権を担うにせよ、大同小異の「政権交替」にならざるを得ないからだ。

 しかしこういう事態がずるずると続くと、国民の間にやり場のない閉塞感が確実に高まってくる。日本が先進国のなかでもずば抜けた大量の自殺者を出しているのはその悲しいあらわれだが、それがいつ社会に対する深い恨みや激しい憤りに転化するかわからない。事件の当事者がどれだけ明確な動機と目的を持っているか、意識しているかどうかは別にして、最近の秋葉原事件や埼玉・東京事件はなにやら不気味で不安な予兆を感じさせる。ときあたかも、社会への抗議の方法が「自殺(死)から自爆へ」といった攻撃的な方向へ変化しつつあるような感じさえ受けるのである。

 スポーツが国民的人気を集めるのは、厳密なルールと選手の日頃の鍛練に基づく勝敗の必然性と透明性にある。ダメ選手やダメチームは必ず負けて退場を迫られるし、優秀な技量とスピリットを持つアスリートは必ず勝利して観客の期待に応えることができる。そのことがサポーターを熱狂させ、フアンと選手やチームとの一体感を生み出すのである。国民の政治不信を取り除き、政策に対する信頼感を取り戻すには、ダメ投手を一刻も早く首にして、新しいチーム編成のもとに観客の期待に応えられる試合を再開することだ。そうでなければ、観客席に誰もいなくなるか、暴徒がグランドになだれこむか、こんな不測の事態がいつ起こらないとも限らないのである。(続く)