“綱領なき政党・民主党”の漂流過程、野田政権論(1)、(私たちは東日本大震災にいかに向き合うか、その33)

 まだ組閣人事が終わってもいない段階で、野田政権を論じるのは「時期尚早だ」と言われるかもしれない。しかし「どじょう(どぜう)内閣」といった低レベルの政治評論、政局報道が飛び交う中で、どのマスメディアも、またマスメディア御用達の政治学者たちも固く口を閉ざして語らないことがある。それは、“綱領を持てない政党・民主党”という角度からの政権分析だ。

 私はかって政治系学科(法学部)に身を置いたことはあったが、いわゆる「プロの政治学者」ではない。だがそんなアマチュア研究者でも思うのは、今回の菅政権から野田政権への移行過程において、本格的な「民主党政権論」がマスメディアの社説・論説においても、また政治学者の談話やコメントにおいても皆無であることは不思議でならない。

 近代政治学の理論からすれば、「綱領を持たない政党」の存在自体が特異(特殊日本的)な政治現象として研究に値する出来事であるし、まして「綱領を持てない民主党」が政権政党になるなど、マスメディアや学会挙げての一大テーマになるほどの大事件ではないか。それにもかかわらず、それが当然であるかのごとく政治評論が行われ、その上に立って面白おかしく「どじょう内閣」などの報道が氾濫するのはいったいどうしてなのか。

 その象徴ともいえるトピックスが、民主党の「マニフェスト見直し」をめぐる一連の政治騒動だった。「ねじれ国会」を解消し、補正予算関連法案を成立させるために、民主・自民・公明の3党間で「子ども手当解消」など、民主党政権交代時に掲げた一連の「マニフェスト」(政権公約)の見直しを行うことが前提となり、合意文書が交わされて重要政策の変更(変質)が行われた。またそのことが発端となって、「親小沢」「反小沢」といった党内政権抗争が再燃し、代表選挙が行われて野田政権が誕生した。

 鳩山政権から菅政権へ移行したときも、民主党政権交代時に掲げたマニフェストの破綻がきっかけだった。米軍沖縄普天間基地の「国外移転」、「最低でも県外移転」のマニフェストを鳩山政権が実行できず(実行しようとせず)、沖縄県民はもとより全国民の憤激と失望のなかで鳩山政権が崩壊した。しかし菅後継政権においては「日米合意」が至上命題となり、普天間基地の継続(辺野古地区移転)が確認された。

 そればかりではない。菅政権はマニフェストにもなかった「消費税10%増税」や「TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加」をある日突然持ち出し、内閣の主要政策に掲げた。総選挙の洗礼も受けていない菅後継政権が、民主党政権交代時のマニフェストをいとも簡単に投げ捨て、政権公約にもなかった政策をある日突然に持ち出すという「離れ業」をやってのけたのだ。

 野田後継政権もまた同様の道を歩もうとしている(でなければ首相になれなかった)。野田氏は、民主党代表選挙において民自公3党合意の「民主党マニフェスト見直し」を遵守し、「日米合意」を深化させて普天間基地移転を推進し、消費税を増税し、「子ども手当」を解消するなどの基本方向を再三再四表明している。野田政権は、民主党と国民との間の選挙公約であるマニフェストよりも党内代表選挙政策を上位に置き、かつ政権を争った自民・公明両党との政策連携・大連立を推進しようとしているのである。

 今回の政界再編(事実上の大連立)の切っ掛けとなった民自公3党合意すなわち「民主党マニフェスト見直し」は、マスメディアではもっぱら政策実行に必要な財源問題(財源不足)から論じられている。民主党が「出来そうにもない政策」をマニフェストに掲げたので、それを見直すのが「現実的」であり、「政権与党」というものであり、「大人」の行動だというのである。

 「財源がないから公約を見直す」などというのは、一見常識的に聞こえるかもしれない。だが、政党の公約それも「マニフェスト政権公約)」ともなれば、前政権の「出来ない政策」を掲げるのが本来の姿であって、「出来る政策をやる」のであれは、政権交代をする必要がない。いつまでも野党のままでいればよいのである。自公政権では「出来ない政策」を民主党が総選挙のマニフェストとして掲げたからこそ、それに期待した国民が「政権交代」させたのだ。

 だとすれば、「出来ない政策を出来るようにする」のが民主党の役割であり、政治責任であって、「出来ないから政策を変える」のであれば、政権与党の地位にとどまる資格がない。降りる他はないのである。それがなぜ民主党は、鳩山から菅へ、菅から野田へと政権をたらい回しにして政権与党から降りようとしないのか。そこに「綱領を持てない政党・民主党」の本質(悲劇)があるというのが、私の見解であり分析視角である。

 2009年総選挙における民主党マニフェストは、綱領を持てない民主党の事実上の“暫定綱領”だった。それは単なる「選挙公約」といった軽いものではなく、民主党の「党是」であり、事実上の「綱領」に匹敵するものだった。だからこそ、自公政権に見切りをつけた国民が「それに代わる政党」として民主党に期待したのである。政権交代が起こったのは、個々の政策内容の変更もさることながら、それ以上に「政権政党の交代」に国民の期待が集中したからだ。そして民主党がこの期待に応えていれば、「2大政党制」がその後機能していたかもしれない。

 しかし、鳩山政権が挫折して以降、菅政権・野田政権と「マニフェスト見直し」が続くにつれて、綱領を持てない民主党の“溶融”がはじまった。その行き着く先が民自公3党合意であり、事実上の大連立の形成だった。綱領を持てない民主党には結党の理念や政党としての機軸がなく、「マニフェスト見直し」にブレーキをかける機能が備わっていなかった。野田政権の登場は、綱領を持てない民主党の「メルトダウン」に至る漂流過程であり、その最終局面となるだろう。(つづく)