時代錯誤で化石的ともいえる北朝鮮観光政策の矛盾、(近くて遠い国、北朝鮮への訪問、その9)

歴史的にみれば、観光旅行は信仰する場所(聖地)への巡礼や参詣に起源があるとされている。キリスト教の発祥地であるベツヘレムやエルサレムイスラム教のメッカなどへの巡礼は、敬虔な信徒・信者にとっては生涯をかける大事業であったし、今も変わらない。日本でも遠くは平安貴族の熊野詣があり、江戸時代には伊勢参りが庶民の間で大流行した。いまでも老若男女を通して人気のある四国八十八カ所巡りなどは、その系譜に連なるきわめて現代的な社会現象ですらある。

 日常生活を離れて他地域や異国を旅する巡礼は宗教的行為ではあったものの、それは非日常的な世界にふれる稀有の機会であり、また人と人との交流が生まれる貴重な体験でもあった。それは信仰のゆえに許された旅ではあったが、信仰とかかわる祭礼の発生や門前町の形成にも見られるように、次第に楽しみとコミュニケーションの場としての性格が加わり、やがては「精進落とし」の機会としても発展していった。

 かくして聖地巡礼から派生した名所旧跡巡りは、信仰の対象としての社寺や史跡が依然として大きな比重を占めているとはいえ、その性格はかっての宗教的行為から変化して、社寺に代表されるその地の歴史や文化に親しむ文化的行為へと次第に発展してきた。そして現在は、その地の自然文化や生活文化を体験して楽しむ「まちなか観光」や「滞在観光」が主流となり、その一環としての買物旅行が巨大な牽引力になってきているのである。

 このような観光の歴史的動向をみるとき、北朝鮮観光がいかに世界の趨勢からかけ離れた時代錯誤の存在であり、しかもその化石的性格が政府方針として強固に維持されていることには驚かずにいられない。そこでは事実上、金日成が「聖者」として崇められ、関連する地域が「聖地」となり、そして観光客は外国人も含めて悉く「信徒・信者」としての恭しい振る舞いを要求されるのである。観光の発展段階からすれば、北朝鮮の観光はいまだ「聖地巡礼」の域を出ていないのだ。その一例を紹介しよう。

 私たちが万寿台の金日成大記念碑に案内されたとき、ガイドは(少し困惑したような表情を浮かべて)、「金日成主席の銅像の前では献花をするになっている」といって、伝統衣装をまとった女性から献花の花束を買うことを勧めた。また銅像の前では、同じく背広のボタンを嵌めて拝礼をすることを勧めた。(Tシャツとジーンズ姿の若者は拝礼を許されない)。私たちがこの場所に来ることも含めて、この種のモニュメントにあまり「感動」していないことに早くから気づいていたからだろう。

しかしここでもまた、私の友人は金日成と同じポーズをとって挨拶をするという大胆不敵な行動に出た。敬虔な金日成の信徒にとっては予想もできない出来事だっただろう。呆気にとられたガイドが、しかし次の瞬間には周囲をすばやく見渡したところを見ると、友人の行動は北朝鮮では相当な「不敬行為」にあたることは確実らしい。もし警察や監視員がその場にいたとすれば、きっとガイドは「ただでは済まない」ことになったのではないか。

 信者らが崇拝する聖地を訪れ、自らの信仰心を満たすことは「信仰の自由」であり、誰もが尊重しなければならない基本原則だ。しかし宗派や信仰を異にする信徒や一般市民に対して、自国の信仰を強要することは「信仰の自由」・「思想信条の自由」を犯すことになる。かってイスラエルの要人がイスラム教徒の聖地に勝手に入ったことが国際紛争の火種になったことを思えば、北朝鮮観光の流儀は国際常識に照らしてあまりにも無神経すぎるといわなければならない。これでは「国内の信者」は集められても、国外から外国人観光客を大量に集めることは難しい。

 くわえて不幸なことに、ピョンヤン市内には名所旧跡がほとんど残っていない。朝鮮戦争の激しい戦火によって歴史的市街地の大半が灰燼に帰し、歴史的建造物や庭園のほとんどが失われてしまったからだ。本来であれば、ヨーロッパの歴史都市のように、第二次世界大戦時の爆撃や戦闘によって破壊された建造物や文化財を復元することがあってもよかったが、代わりに聳え立ったのは、スターリン型の都市計画にふさわしい巨大なモニュメントであり、数々の金日成記念建造物群だった。

指導者のモニュメントと巨大な建造物で埋め尽くされたような都市は、正直言って先進国からの観光客にとってはあまり魅力のある存在ではない。その地の歴史文化と生活文化が混然一体となっているような都市がいまは多くの観光客を惹きつけるのであり、そのことは世界文化遺産に指定されているような歴史的市街地を歩いてみればすぐにわかる。今回の訪問で唯一ホッとしたのは、高麗国の首都・開城市(ケソン市)の王宮跡の高麗博物館であり、貴族の住居跡を活用した周辺の歴史的な民宿群地域であった。(つづく)