ポストコロナ戦略のない観光政策ではこの難局を乗り切れない、コロナ禍でも突き進む京都観光(番外編4)

 

観光学者でもなく経営学者でもない私が、京都の観光需要の落ち込みについてあれこれ言うのは慎まなければならないと思う。ところがその一方、京都市の観光政策について物言う研究者がいないのはおかしい―とも思うのである。市の観光関係の審議会や有識者会議に出ている常連メンバーは、市役所のなかでは活発に議論するが市民の前には滅多に出てこない。「市民に対する発言は謹んでほしい」とでも言われているのだろうか。

 

門川市政(2008年~)がスタートしてから今年で13年目、新型コロナパンデミックが発生してから2年目になる。門川市政は4期目(2024年)で終わるが、このままでは晩節を全うするのは難しい(できそうにない)。同じ状況にありながら、1期目の西脇京都府知事にはなんとなく余裕が感じられるのに対して、後のない門川市長の顔はいつも引きつっている。よほどストレスが強いのだろう。

 

門川市政は、第2次安倍政権(2012年~2020年)の「観光立国政策」とともに歩いてきた(というよりは、そのお先棒を担いで突っ走て来た)。官房長官時代の菅氏ともよしみを通じ、門川市政は観光立国政策の表舞台に立ち続けてきたのである。この上意下達の構造が、京都の観光政策を縛っている。国の方針が変わらない限り、市の観光政策も変更できない仕組みが出来上がっているからである。

 

菅政権は、今回発表した「骨太の方針」においても「2030年6000万人」のインバウンド目標は変えていない。最近閣議決定された「観光白書」においても、この目標は金科玉条のごとく掲げられている。だとすれば、門川市政が国の意に反してインバウンド目標のダウンサイジングに繋がるような政策を打ち出すことができない。具体的な数字目標を挙げることは避けているものの、観光政策の基調が依然として国の「2030年6000万人」に合わせて設定されているので、観光客の制限や宿泊施設の縮小を大胆に打ち出すことができないのである。

 

門川市政が国の「下請け」になる中で、市の審議会や有識者会議の顔ぶれも劇的に変わってきた。かっては学識豊かな碩学が審議会会長や有識者会議座長を務めるのが習わしだったが、最近はコンサルタントまがいの研究者がその座に就くようになった。もはや市独自の政策を考える必要がなくなったため、国から降りてくる政策を都合よくこなすキャラクターが求められるようになったのである。国や市の意向を素早く察知し(忖度し)、それを外国語にまぶして粉飾し、見た目をきれいに仕上げる「ケーキ職人」まがいの研究者が持てはされるようになったのである。

 

しかも、この種の研究者が「専門分野」を超えて多用されるようになったことも最近の門川市政の特徴だろう。御用学者といえども、かっては一応「専門分野」の縛りがあった。学識経験者はそれぞれの専門分野に応じて起用され、専門外の分野にまで口を出すことはなかった。それが最近では市長の「お気に入り」となると、観光研究者でありながら総合計画や財政運営にも口を出すようになり、市長の意向を代弁するような人物があらわれてきたのである。このような事態は「側近政治」ともいわれ、菅政権における竹中平蔵氏やデービッド・アトキンソン氏、あるいは先日暴言で辞任した高橋洋一氏などの顔が目に浮かぶ。いずれも「学者」の範疇には収まらない個性的な人たちであるが、それだけに権力の後ろ盾がなければ人生を全うできない人たちでもある。

 

門川市長はかって宿泊施設の増加は、「資本経済の流れであり、規制できない」というのが身上だった。それが市民からの観光公害、オーバツーリズム批判を受けて一時的には「宿泊施設お断り」の宣言を出すところにまで追い込まれたが、それを実現するための方策は皆無だった。かくして、京都はホテルも民泊(簡易宿所)も満杯状態になり、それがいまコロナ禍のもとで逆境に喘いでいるのである。

 

だが、菅政権がそうであるように、門川市政もこの難局を打開しようとする戦略もなければ政策も持っていない。端的に言えば「成り行き任せ」であり、これからも時の流れに身を委ねるだけの姿勢に終始するだろう。資本経済の流れは、観光バブル期に爆発的に増えた宿泊施設は、コロナ禍にあっては容赦なく淘汰されるというものである。門川市政はこの経済法則に則り、過剰になった京都のホテルや民泊施設が廃業に追い込まれるのを放置するだろう。そこに政策的に介入し、時の流れに「掉さす」ようなことはしたくないからである。

 

だが、そこに一つだけ政策らしいものがあるとすれば、それは低質な宿泊施設の淘汰はこのまま放置するが、「上質宿泊施設」の誘致は継続するというものである。仁和寺前のホテル建設計画はその一環であり、あらゆる口実を設けて推進する姿勢は変わらない。そこには、おそらく「観光マフィア」といった闇の組織が介在しているのだろうが、今のところはまだわからない。

 

それにしても、この事態は「オリンピックマフィア」ともいうべきIOCの下で強行される東京五輪の構図と酷似している。日本国民の生命の安心安全に何等考慮することなく、「国際興行師」の本性を丸出しにして利権や興行収入の確保だけに突っ走るIOCの姿勢は、もはや誰に目にも明らかではないか。菅政権もスポンサーの利権を確認するため、国民の生命を犠牲にして「成り行き」に身を任せている。そこには、インド株への置き換えにともなう再感染の危険やリバウンドの可能性には目をつぶり、政策転換の可能性を検討しようともしない無能さがあるだけだ。

 

コロナ禍によって淘汰される京都の宿泊施設は膨大な数に上るだろう。それだけではない。宿泊施設が廃業した後の地域はそれ以上の打撃を受けるだろう。歴史ある京都の「まち」が食い荒らされてゴースト化し、京都のまちの品格が失われて心ある観光客は寄り付かなくなるだろう。こんな事態を避けるためにも、門川市政の「側近政治」には終止符を打たなければならない。それが、京都が世界のなかで生き残る唯一の道である。