菅政権のダッチロール(その12)、水面下に潜る中央政界、“火遊び”で騒ぐ地方政界

 菅政権の動きがまたもや得体のしれない動きを見せている。内閣改造を「やる」とか「やらない」とかいって野党の出方や世論動向をうかがいながら、裏では権力闘争とヤミ取引に終始しているのだろう。でもこんな古臭い手垢にまみれたやり方は、自民党時代と同じ、いやもっと低レベルの策動でしかない。魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類だ。

 こんな中央政界の胡散くさい動きにくらべて、阿久根市長選や名古屋・大阪の地方選挙の方がはるかにわかりやすい。というよりも、劇場型の「選挙騒動」を起こして世間の耳目を引くというのが、橋下・河村・竹原氏など「専制タイプ」の首長たちの一貫した作戦だからだ。

 なぜこの種の人物がメディアの世界でかくも騒がれるのか。ひとつには、「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる」という例のメディア法則が働いているからだろう。奇抜な言動を続けなければ、メディアから忘れ去られる怖れがある。そのときが「政治家」としての終わりだということであれば、この種の人物は「死ぬまで」騒ぎ続けなければならない。悲しい宿命だ。

 だが、いつまでも奇抜な言動は続かない。「人が犬を噛む」ニュースも二度三度となればやがては飽きられる。そうなると、今度は「噛み方」の趣向を変えなければならなくなる。橋下・河村氏などが次から次へと新手を繰り出すのは、「噛み方」を変えて見せるための涙ぐましい努力のたまものというべきだろう。

 これまでの地方首長像といえば、利権あさりに熱心な「土建タイプ」か、中央政界に忠実な「天下り役人タイプ」が主流だった。しかし開発利権汚職や公害問題などの矛盾が表面化してくると、民意は手垢にまみれた政治に愛想を尽かして清新な人材を求める。一時期、学者首長が革新自治体のリーダーとして華々しく登場したのはこのためだ。

 しかし財政悪化が進んで住民要求が満たされなくなり、それが地方行財政制度の構造的欠陥に因ることを有権者が理解できないときは、「首長を変えれば何とかなるかも」との誘惑が働く。そして、ベテランの行政マンなら「何とかしてくれるかも」との期待が高まり、今度は助役上がりの首長がトコロテン式に生み出されてくる。でもこんなことが“幻想”であることは、助役上がりが半世紀以上も市長を続けてきた神戸市政の惨状を見ればすぐにわかることだ。

 そうなると、次は経営能力に長けたビジネスマンかコンサルタント、あるいは政策能力のあるシンクタンク上がりの専門家ではどうかという話になる。かくして「政治経済のプロなら行政を任しても大丈夫」との神話がいつも間にか出来上がり、民間企業経営者や銀行調査マン、経営コンサルタントシンクタンク出身の「経営至上タイプ」の首長が輩出するようになる。

 しかし「利潤追求」を至上命令とする民間企業と、住民の「最大幸福」(「最小不幸」ではない)を目的とする自治体行政では、経営原理も経営手法も違う。このことがわからない民間経営者やシンクタンクの「プロ」が首長になると、住民や地域にとっては一大悲劇が起こる。一時もてはやされた「民営化」や「効率的経営」が下火になってきたのはそのためだ。

 そこで、最後の出番が回ってきたのが橋下・河村・竹原氏などの「専制タイプ」の首長だ。松下政経塾出身の多くの民主党幹部もこの部類に入るだろう。思想的には極めつきの「市場原理主義」・「新自由主義」で洗脳され、行動様式は「ファッショ的専制主義」で身ぐるみ覆われている。要するに、「競争社会における脱落者は容赦なく淘汰されて然るべし」とする「社会的ダーウィニズム」・「弱肉強食主義」の信奉者たちだ。

 ところが始末が悪いことに、この種の首長たちはマスメディアの関心を惹きつける独特のテクニックを身につけている。「人が犬を噛む」ような奇抜な言動を絶えず演出することで、世間の低劣な関心を引こうとするのが得意なのだ。橋下・河村氏のような一流の「政治タレント」になると、テレビで身に付けたテクニックを駆使して自分達のキャラクターを印象付けるのが非常にうまい。

 彼らの言動を冷静に分析してみると、「何を実行するか」という政治理念や政策意図を語るのではなくて、その真意をはぐらかして「どのように言うか」というその場の雰囲気づくりに重点を置いていることがよくわかる。真意を生の言葉でしゃべると有権者の猛反発を喰うことをよく知っているので、肝心の「政治のナカミ」を語らないで、もっぱら「何かしらやってくれそうな気がする」といった雰囲気づくりを次から次へと「新しいネタ」で披露しようとする。そしてマスメディアはそんな「ぶら下がり取材」を映像と記事にする。

 旧い独裁者は、ヒットラーのようにパフォーマンスを練習して大衆を操作した。しかし新しい独裁者は、パフォーマンスを習熟したマスメディアのタレントの中から生まれてきている。橋下・河村氏のような「専制タイプ」の首長は、目下「小さい独裁者」の域にとどまっているかもしれないが、中央政界の閉塞状態がこのまま続くと、彼らの“火遊び”はいつかしら“大火事”になっていかないとも限らない。(つづく)