福島第1原発事故の本質は風評被害問題にある、「企業国家日本」の破綻、そして崩壊のはじまり(3)、(私たちは東日本大震災にいかに向き合うか、その10)

なぜ、福島第1原発の事故がこれほど大規模な国内外の「風評被害」を呼び起こすのか。そして、人々をいいようのない不安と恐怖のどん底に陥れるのか。それは「風評被害」にこそ、原発事故問題の“本質”があらわれているからだ。言い換えると、原発事故はそれほど拡がりが大きい問題であり、かつ被害状況も直接的な被害から間接的な被害、さらにはそれらに起因する多様な心理的不安をもたらす地球規模の大災害だからだ。「安全」と「安心」というキーワードに即して言えば、原発事故に関する「風評被害」は、人々の“安心”を根底から揺るがす社会的大災害なのである。

 私は、前回の日記で「東日本大震災は最終的に原発風評被害を解決しなければ収束しない」、「風評被害の根源は、東京電力をはじめとする日本企業に対する国内外の不信、それをコントロールできない企業国家日本に対する政治不信にある」と書いた。これは、これまでの「風評被害」に対する見方が、加害者側の東電やこれに加担する政府に主たる原因があるのではなく、ともすれば被災者や国民側の過剰反応や正しい科学的知識の欠如にあるかのごとく思われてきたからだ。
 
 だが、「風評被害」は通常徹底した情報公開のもとでは拡がりにくいし、企業や政府に対する信頼感が存在する社会ではそれほど深刻化することもない。しかし福島第1原発事故の場合は、もともと東電の事故隠蔽やデーター改ざんなどの前歴に対する根強い国民の不信・疑惑があり、その上、事故発生直後の放射能汚染分布予測(SPEEDI)に関する情報公開が、「国民や社会をパニックに陥れる危険があった」(原子力安全・保安院)との理由で見送られたことが、その後の深刻な「風評被害」の拡大原因になったことを厳しく指摘しなければならない。
 
 「国民や社会をパニックに陥れる危険」を回避しようとしたなどといわれると、いかにも政府が被災者や国民を案じているかのように思われるが、実はそうではあるまい。「パニック」とは、通常「群衆の混乱状態」のことだ。情報公開すれば住民や国民が“混乱状態”に陥るなどといった政府の「手前勝手な斟酌」は、被災者や国民を政府や専門家の一段下に置いた「愚民視」「愚民扱い」のあらわれだ。一般大衆は情報を正確に理解できない「群衆」であり、政府が情報管理しなければ「混乱」するなどというのは、彼らが被災者や国民を単なる「操作対象」「支配対象」と見なしているからに他ならない。

 しかし、真実は別のところにあったのだろう。政府のいう「パニック」とは、被災者や国民の“原発批判”が一挙に高まることを指していると私は考えている。これまで「原発安全神話」を散々振りまいてきた電力会社や政府からすれば、今回の福島第1原発事故はあらゆる面で安全神話の虚構を暴露するものであっただけに、「国民や社会をパニックに陥れる危険」すなわち「原発批判世論の爆発的高まり」を回避する必要があった。そのため、政府が事故発生直後の放射能汚染分布予測(SPEEDI)に関する情報を公開しなかったと解釈すると、全ては辻褄が合うのである。

 そういえば、事故発生直後からマスメディアの紙面や画面を踊った「日本人の冷静沈着な秩序正しい行動」に関する賞賛記事や報道も、「国民や社会をパニックに陥れる危険」を回避するための“一大キャンペーン”だったのではないかと思えてくる。外国人旅行者や報道関係者の目から見ると、日本では確かにニューオーリンズやハイチで起こったような略奪行為や犯罪行為もなければ、救援物資を争うようなこともなかった。このことは日本国民の高い倫理性を示すものとして誇っていいだろう。
 
 だが、そのことが「原発批判」や「政府批判」を抑えるための政府の意図的なキャンペーンに転化し、利用されているとなれば、話は別だ。「風評被害」で生乳を出荷できなくなった酪農家が、涙をこらえて搾った牛乳を溝に捨てている光景があった。もしこれがヨーロッパだったら、農民たちは大挙して東電や政府に押しかけ、その前で抗議集会を開き、出荷できなくなった牛乳をぶちまけていただろう。しかし日本では、野菜農家や酪農家はいまだに「冷静沈着で秩序正しい行動」を強いられているのである。

 「依らしむべし、知らすべからず」という古来からの支配者側の鉄則がある。住民や国民を支配するには徹底した情報管理が必要であり、その要諦は支配者側にとっての都合の悪い事実を知らせることなく、国民や社会が政府情報を一方的に信じるような状態をつくりだすことだ。だから東電や原子力安全・保安院は、「パニックを起こさない」との理由で事実を隠蔽し、枝野官房長官は「当面、健康に被害はない」との弁明を繰り返したのである。

 しかしこれで事態が収まらなかったところに、今回の原発事故の深刻さがある。それは国際世論の推移を見れば明らかだろう。最初は日本人の秩序正しい行動を賞賛していた海外メディアの論調がある時期を境にして一転し、日本列島は悉く放射能汚染に覆われているかのような地球規模の「風評被害」が発生した。それとともに、日本政府や東電が事故の実態を隠しているのではないかとの疑惑が一挙に高まり、日本発の工業製品までが輸入規制の対象になり、外国人の観光旅行が激減した。経済活動が一挙に落ち込むなかで経団連が大慌しはじめ、日経が原発事故の「危機レベルを上げよ」と異例の論説を掲げたのもこの頃だ。

 また国内でも、飲料水や食品はおろか観光旅行にまで「風評被害」が大々的に広がった。東電や政府から正確な情報公開が得られない状況のもとでは、国民は自らの健康や生活をまもるために自衛せざるを得ない。信頼できない東電や政府からいくら「安全だ」といわれても、国民の「安心」は得られない。「風評被害」とは、決して「根も葉もない噂」や「流言飛語」の類ではなく、国民の正当な自衛行動であり、危機管理行動なのである。

私たちは「安全」の世界だけでは生きていけない。科学理論や技術指針によっていくら「安全」が保証されても、それが広範な人々の「安心」につながらない場合には社会的信頼を獲得できない。とりわけ企業や政府への信頼が欠如している場合は、そこに深刻な「風評被害」が発生し、拡大することは避けられない。東電・財界や政府が原発事故の収束を図ろうとするのであれば、それは、「国民の知る権利」を尊重することから始めなければならない。

「企業国家日本」はもはや国民の信頼を失った。国民の信頼を取り戻すためには、その体質の抜本的改善のほかはないし、改善すれば企業国家体制は崩壊を始める。いずれにして日本の「戦後体制」は終わったのである。(つづく)