再録『ねっとわーく京都』2011年10月号、善意が失意に変わるとき〜京都五山送り火騒動が教えるもの〜(広原盛明の聞知見考、第9回)

再録『ねっとわーく京都』2011年10月号、善意が失意に変わるとき〜京都五山送り火騒動が教えるもの〜(広原盛明の聞知見考、第9回)

「いい話だ」と無条件に思った
たしか6月末の京都新聞(30日)だったと思う。「被災松の薪、送り火に」、「大文字で復興への祈り」と題した記事を読んだとき、私は無条件に「いい話だ」と思った。「被災松」というネーミングには若干違和感を覚えるが、それでも京都の夏の風物詩であり、お盆に先祖の霊を松明で送る五山の送り火は、東日本大震災で家族を失った被災者に対して、京都の人たちが鎮魂の思いを共有するセレモニー(儀式)としてふさわしいと感じたからだ。
それがどこでどうなったのか、同じ京都新聞が8月に入ってから突如「被災マツ、大文字使わず」、「放射の不安で一転」、「保存会が決定」と報じた(6日)。聞けば、被災地の松を燃やすことが「放射能拡散につながる」、「琵琶湖の水が飲めなくなる」とかいった苦情が、市民から大文字保存会や京都市に対して多数寄せられたからだという。
この日の記事が切っかけになって、それまで大した関心を示さなかった全国紙やテレビ、ワイドショーがこぞって被災地の松の「送り火使用中止」を取り上げ、事態はあたかも“炎上状態”を呈することになった。ニュース価値のある「京都」「送り火」「大震災」のキー ワードがそろい、それらが原発事故をめぐる国民の不安感を刺激する格好のトピックスになったためだろう。

「何という馬鹿げたことを」と感じた
陸前高田の松の「送り火使用中止」が全国ニュースになった8月7日当日、私は宮城県の仙台にいた。有名な「仙台七夕祭り」の観光に行ったのではない。8月5日から4日間の予定で、東北各県の専門家たちと復興計画のあり方について協議するため、盛岡・福島・仙台と各県の県庁所在都市で連続して行われた朝から晩までぶっ通しの会議に参加していたのである。
ところが、3日目の仙台弁護士会館での会議の休憩時間中に、日弁連(日本弁護士連合会)災害復興支援委員会の責任者である神戸の弁護士から、「京都はけしからん!」と言って見せられたのが、スマートフォンの画面に映し出された「使用中止」のニュースだった。
その瞬間、率直に言って、私は後ろから「冷水をかけられた」ような気持ちになったことを告白しなければならない。また次の瞬間には、「何という馬鹿げたことを!」という激しい憤りの感情を抑えきれなかった。周辺で私たちの会話を聞いていた仙台の弁護士たちは黙っていたが、おそらくそれ以上怒っていたにちがいない。

慌てた京都市役所
京都に帰った9日以降、新聞やテレビはこのニュースで持ちきりとなった。被災地の松の「送り火使用中止」を知った多くの京都市民から、今度は「被災地の思いを踏みにじるもの」、「放射能風評被害を拡げる行為」、「京都のイメージダウンにつながる」など、激しい抗議の声が保存会や市役所に殺到した。他府県からの抗議も多数あったという。
大文字保存会の人たちは、思いもしなかった反響にさぞかし驚きかつ困惑したことであろう。だがそれよりももっと慌てたのは、市長以下、市役所の面々だったらしい。9日に開かれた市議会くらし環境委員会では、各市議から「京都市の失った信用は計り知れない」、「(市役所は)保存会とパイプがあるのに(中止の)決定に関与できず、責任の一端がある」との批判が相次ぎ、京都市は「被災者をはじめ多くの方にお詫びする」と陳謝せざるを得なかった。(京都、8月10日)
私のメールにも東北の関係者から厳しい指摘が相次いだ。多くは「被災者や被災地の気持ちへの配慮が足りなかった」という穏便なものだったが、そのなかには「(放射能を浴びた)被災者は京都観光に行けないというのか」、「京都へはもう行かない、いや絶対に行きたくない」、「京都人は閉鎖的で排他的だ」など、感情的なメールも交じっていた。

“善意”だけでは向かい合えない現実
「実施の可能性探らず」、「思い背負う自覚欠如」との見出しを掲げた8月10日の京都新聞は、「経過を検証すると、放射能汚染の不安の声を受け、大文字保存会と京都市が相談を重ねたものの、一度は引き受けた事柄の重大さと、中止による反響の大きさを真剣に検討しなかった両者の自覚の欠如が浮かび上がる」(沢田記者)と指摘している。
この記事は、事の本質を鋭く突いている。要するに、今回の使用中止騒動の背景にあったものは、原発災害に直面している被災地や被災者の厳しい現実に真正面から向かい合うことなく、“善意”という衣で包んだ「京都のイベント」に被災地の松を受け入れ、五山送り火として実施しようとした関係者の(安易な)気持ちがあったのではないか、ということだ。
京都市民や市職員のなかには、3月11日の発災以降、数多くの人たちが被災地の支援活動に出向いている。ボランティアとして行った人もあれば、公務として派遣された人もいる。また自発的に調査に行った大学や民間研究機関の専門家も多数に上る。しかし、京都市民の誰もが簡単に現地に行けるわけでもないので、今回の「京都のイベント」に関わった人たちは、ひょっとすると現地の状況にあまり詳しくなかったのかもしれない。そうだとすると、京都の人たちの“善意”と被災地の“現実”との間に横たわるギャップ(認識のずれ)の大きさが、事の発端であり、原因だったとも考えられるのだ。

原発災害という「見えない災害」
マスメディアやコミュニケーション・ツールがこれだけ発達している日本だから、私たちは居ながらにして新聞やテレビ、インターネットなどで被災地の状況を知ることができる(と思いがちだ)。だが、通常の自然災害とは異なり、原発災害は様相も状況もまったく違う。それは、原発災害が「目に見えない災害」であることから、その実態を把握するには「肌で感じる」だけではなく、「理性の力」「科学の力」を借りる必要があるからだ。
今回話題となった被災地の松は、陸前高田市の大津波でなぎ倒された景勝地高田松原」の松だ。陸前高田市岩手県の南部に位置し、福島第一原発とは宮城県を挟んで約200キロも離れている。事故現場から10キロや20キロの「警戒区域」や「計画的避難区域」ならまだしも、200キロも離れている陸前高田の松が放射能で汚染されているとは誰もが予想しなかった(できなかった)。原発事故直後から、東電、政府、原子力ムラの学者たちが挙って「原発は大丈夫」「直ちに健康に支障はない」などと“大本営発表”を繰り返し、被災者や国民はそれを信じる他がない状況に置かれてきたからだ。
だが、私たちが前回(4月末)の被災地調査で壊滅した高田松原の現場に行ったとき、同行していた核物理学者のガイガーカウンターからは、すでにそれなりの放射能が検出されていた。また福島市内に自動車で入ったときは、避難区域でないにも関わらず、道路わきの「ホットスポット」(局地的な高線量地域)近くを通過したためか、車内でもガイガーカウンターがけたたましく鳴って緊張を強いられる場面もあった。政府や自治体のモニタリング体制が追いつかないために、すでにその段階で放射能が広範囲に拡散している実態を私たちが知らなかっただけの話なのだ。

放射能は広範囲に拡散している
原発事故から日が経つにつれて、微量であれ低線量であれ、放射能が広範囲に拡散している状況が次第に明らかになってきている。事故直後の野菜や茶の汚染騒動は現在一時的に収まっているものの、今度は放射能に汚染された牛肉が流通し、その多くが全国の消費者の食卓に上っていたことが判明した。しかし、これからもコメや水産物も含めて同様のことが繰り返されないとは、専門家といえども誰も断言できないだろう。
この深刻な事態を直載に指摘したのが、7月下旬、衆議院厚生労働委員会参考人として出席した児玉龍彦教授(東大アイソトープ総合センター長)の証言だった(東大にもこんな立派な学者がいる!)。児玉教授は、食品の放射能汚染で消費者の不安が全国的に広がっているにもかかわらず、政府が食品の放射線量測定に全力を注がず、子どもたちを守るための法整備も怠っていることを厳しく批判した。そして「放射性物質を減らす努力に全力を挙げることを抜きに、どこが安全だという議論をしても国民は絶対信用しない」、「7万人が自宅を離れてさまよっている時に、国会は一体何をやっているのですか!」と並居る国会議員を激しく叱責したという。(毎日、8月8日)
児玉教授の推計によれば、福島原発事故で放出された放射性物質の量は、ウラン換算で広島原爆20個分に相当する膨大な線量に達したとされる。その後の放射線量の減り方が異常に遅いことを考えれば、すでに放射能が広範囲にわたって拡散しており、今後予測がつかない場所で濃縮が起こる場合もあり得ると警告したのである。そして結論として、局所的な緊急避難的除染と地域全体を対象にした恒久的除染を区別して実施し、恒久的除染作業は国家事業として全力で対処しなければならない大事業だと力説した。(同上)

放射能の未検出が前提条件だった
京都での各紙報道によれば、被災地の松の送り火使用は、放射能が検出されないことを前提条件とした取り組みだったという。ところが、最初は放射能が検出されなかったにもかかわらず、「放射能の不安」だけで中止された。このことが理不尽だとか、風評だけで中止したとかの強い反感を内外に巻き起こしたことは疑いない。
全国からの思いもかけない拒否反応に驚いた京都市は、新たに別の被災地の松を取り寄せ、五山の送り火全体で燃やすことを各保存会に提案した。しかしその際も、「放射能が検出された場合は使用しない」ことが約束だったという。いずれにしても、「放射能の未検出」が被災地の松を送り火に使用する前提条件だったのである。だがこの前提条件は、被災地の現実を余り知らないか、あるいは「希望的観測」にしかすぎなかった。
結果は悲惨なものだった。新たに取り寄せた松から今度は放射性セシウムが検出され、8月12日、京都市は「放射性物質の検出が判断基準」だとして再び使用を断念した。翌日の各紙は、一面と社会面のトップで「五山送り火、無情の上塗り」、「被災の松、再び断念」、「受け入れ巡り状況二転三転」、「取るに足らぬ線量」、「被災地2度悲しませた」、「古都の信頼失墜」などの大見出しで一斉にこの事態を伝え、謝罪する市長の姿を大写しで掲載した。京都中が失意の嵐に包まれた。

自分たちは安全なのか
ここまでくれば、もはや事態の顛末は明らかだろう。その根本原因は、京都新聞が指摘するごとく、関係者が「一度は引き受けた事柄の重大さと、中止による反響の大きさを真剣に検討しなかった」ことに求められる。だとすれば、「一度は引き受けた事柄の重大さ」と「中止による反響の大きさ」は一体なにゆえのことなのか。
私が思うにその背景としては、福島原発事故にともなう放射能汚染がすでに広範囲に拡散しているにもかかわらず、京都や西日本の人たちがその実態を必ずしも正確に把握できず、現実と認識の「ミスマッチ状況」が広く社会全体を覆っているからだろう。言い換えると、多くの人びとが福島原発事故の影響範囲は、原発周辺地域や東北地方の被災地に限られ、その他の地域には放射能汚染が及んでいないと考えているが、実はそうでないということだ。そしてこのことは、一方では被災地からの物流を(時には人の流れも)封じ込めれば「自分たちは安全だ」と思う風評被害の背景となり、一方では「それでも安心できない」という底しれない不安感の原因となっているのである。
私は以前にも書いたように、風評被害を単なる流言飛語の類とは考えていない。それは食品放射能汚染など未知の原発災害に対する消費者の危機回避行動であり、災害防止行動の一端だと考えているからだ。したがって、今回の被災地の松を燃やすことに対する市民の不安意識や性急な行動に関しても、世の文化人や専門家(の一部)が声高にいうように、「京都の恥」だとか「被災地の思いを踏みにじるもの」とは思っていない。ただ言いたいことは、市民の一人ひとりが「放射能不安」におののくだけでは、事態の解決に一向につながらないということだ。

京都は原発銀座の隣接地域
考えてもみたい。いま私たちが住んでいる京都は、日本でも有数いや世界でも有数の「原発集中地域」(原発群)を背後に控えているエリアだということだ。私も何回か見学に行ったが、京都に隣接する福井県若狭湾沿岸には、関西電力11基(高浜原発4基、大飯原発4基、美浜原発3基)、日本原電(敦賀原発)2基、計13基の原子炉が稼働しており、それに故障中の日本原子力研究開発機構高速増殖炉もんじゅ」1基、建設中の日本原電(敦賀原発)2基を加えると、実に16基もの原発若狭湾沿岸一帯にひしめくことになる。世にいう「若狭原発銀座」だ。
くわえて直視すべきは、若狭原発群から京都に至るまでの驚くべき(至近)距離関係だろう。高浜・大飯原発から30キロ圏内には、京都北部の宮津舞鶴・綾部・南丹の各市がすっぽりと入るし、高浜・大飯・敦賀原発の50キロ圏内には、京都の丹波以北と琵琶湖の湖西・湖北地域の大半が含まれる。また80キロ圏内になると、京都府滋賀県のほとんどが原発群の影響下に入るのである。
東京電力東北電力の管内にもかかわらず、東京から200キロ以上も離れた福島県に巨大原発基地を建設した。それは、首都圏の電力需要をまかなうための大規模適地が関東圏にはなかったというのが表向きの理由だが、本当のところは、原発事故が万一発生した場合に原発災害から首都を守るために遠隔地を選んだためだ。そして福島原発事故は、不幸にもそのことを「実証」したのである。
関西電力北陸電力の管内である若狭湾原発銀座を建設したのも、おそらくは同様の理由からだろう。しかし近畿圏と若狭湾は余りにも近すぎた。近畿圏の心臓部・京阪神大都市圏は、若狭原発群から僅か100キロしか離れていない。もし若狭原発群に万一事故が発生したときは、京阪神圏全体が機能マヒに陥ることは避けられない。

明日は我が身か
今回の送り火中止騒動で、被災地の松を燃やせば琵琶湖が放射能汚染されるといった苦情が多かったと聞く。だが原発事故の発生後と発生前(可能性)の違いがあるとはいえ、福島原発から200キロも離れている陸前高田の松の放射能を懸念するのであれば、若狭原発群から僅か30数キロしか離れていない琵琶湖や日吉ダム京都府の広域水道源)の放射性汚染のことを心配しないのはいささかバランスを欠くというものだ。京都市民は、若狭原発群と琵琶湖や日吉ダムの距離関係に日頃からもっと注意を払い、もっと心配すべきではないのか。
平原和郎京大教授(日本地震学会会長)は、今回の原発事故と地震予測の関係を聞かれて、地震学者の敗北を認めたうえで、「西日本でも21世紀半ばごろ東南海、南海地震が起こると予測され、その前に内陸の地震が活発化するという予測もある。首都圏でも、いつ大きな地震が起きてもおかしくない」、「自分は安全、大丈夫と思うのはやめたほうがよい。日本が地震国だということを強く意識しなければいけない時代になった」と述べた。(朝日、8月17日)
また「原子力ムラ」の(御用)専門家を一手に供給してきた東大工学部出身の吉川弘之東大元学長も、今回の原発事故をめぐる原子力科学者・工学者の助言の中立性には大きな疑問を投げかけ、「原発事故の発生とその被害防止の経過を見た人々は、科学の持つ潜在的危険を目の当たりにし、それを制御できなかった科学者への信頼感を失った」と述懐している。(日経、8月18日)
いま日本国民は、54基もの原発が立地する「いつ起きてもおかしくない」地震列島の上に住んでおり、「理性の力」「科学の力」を借りなくては把握できない原発災害に直面していることをもっと自覚すべき時なのである。そして、その担い手である科学者・研究者・専門家にも「いろいろある」ことをもっと知るべき時なのである。

イベント行政の限界と陥穽
最後に、五山送り火行事と京都市のイベント行政の関係についても一言触れたい。まず何百年にもわたって先祖伝来のセレモニーを受け継ぎ、これを自らの力で維持してこられた保存会や連合会の努力に何よりも敬意を捧げたい。京都の美しい山並みと五山を彩る送り火は、私の学生のころからの「京都の原点」ともいうべき風景であり、そのことは今も寸分も変わらない。
今回の陸前高田の松の受け入れも、本来ならば、被災地と京都が心を合わせて東日本大震災犠牲者の鎮魂と追悼の場を共有する得難い機会になるはずであった。そこに流れるのは関係者の「善意」であり、被災者の気持ちに寄り添おうとする「共感」だった。そしてその善意を生かすためには、放射能不安に揺れる市民や関係者を支える「理性の力」が必要であった。京都市はその役割を果たすべきだったのだ。
だが京都市の一連の対応を見ていると、そこには京都観光を振興するための「イベント重視」の姿しか浮かび上がってこない。東日本大震災は、被災地はもとより全国の観光地に甚大な打撃を与えた。政府の原発事故情報公開の遅れ(隠蔽)によって、日本列島全体が放射能で覆われているとの風評被害が世界中に広がったためだ。とりわけ国際観光都市京都のダメージは大きく、激減した観光客を取り戻すことが京都市行政の至上命題となった。
こんな矢先、発生したのが送り火騒動だった。もしこれが切っ掛けとなって京都が放射能で汚染されているとの噂でも広がれば、「京都観光にとっては致命傷になる」と市役所は考えたのではないか。だからこそ「放射能未検出」が送り火の前提条件となり、中止するかしないかの判断基準となったのである。京都市にとっては「放射能不安」の除去が第一命題であり、被災地・被災者の追悼は第二命題でしかなかったのである。
だが「一度は引き受けた事柄の重大さ」と「中止による反響の大きさ」の代償は大きかった。傷跡は拡がり、市長が被災地に赴いて謝罪するといわなければならないところまで追い込まれた。しかし「被災地を二度悲しませた」京都の代表が、陸前高田に迎えられることはなかった。
被災地の松を受け入れて送り火として燃やそうとした「善意」は「失意」に変わった。でも保存会の人々の懸命の努力と多くの京都市民のサポートによって、「失意」は辛うじて救われた。京都と被災地の人々は、これから五山送り火の季節が来るたびに、その苦い経験と教訓を思い返すことだろう。

●補注:その後、京都でデザインを学ぶ学生たちが陸前高田の松で仏像を彫り、地元へ届けた。