保存・修復・再生プロセスを可視化した731部隊遺跡跡地の世界遺産登録の可能性、中国東北部ハルビン市731部隊遺跡訪問記(4)

 私自身は、731部隊遺跡跡地の保存・利用計画をめぐるこれまでの経緯を必ずしも詳しくフォローしているわけではない。したがって中国国内での動きやこれを支援する日本の平和運動諸団体の意見を一応参考にしながらも、ここでは主として私自身の個人的感想や意見を述べてみたいと思う。

まず今回の世界遺産登録にあたって問題となるのは、アウシュヴィッツ強制収容所の登録に際して、「この遺跡は唯一のものであって、類似の遺跡は今後制限する」との世界遺産委員会の付帯決議をどうクリアーするかということだ。広島原爆ドームの場合は、アメリカが戦争遺跡を世界遺産に含めること自体に反対したため、「人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めとなる物件」としての認定ではなく、広島原爆ドームは平和希求の象徴であって「戦争遺跡」とはみなされなかった。いわば「広島平和公園」の中核施設としての原爆ドームの位置づけである。

この間の政治情勢との関係でいえば、日本政府がアジア・太平洋戦争の加害者としての戦争責任を認め、かつ原爆投下に対するアメリカの国際法上の責任追及を明確にする立場にあればともかく、そうでなかったことが広島市民をはじめ日本の平和運動関係者をして原爆ドームの保存運動に向かわせることになり、その一環として世界遺産登録が浮かび上がったということであろう。言い換えれば、日米両政府が戦争について「二度と誤りを繰り返さない」ことを誓い、核兵器開発や核戦争の全面禁止に踏み切っていれば、日米合同で原爆遺跡跡地の保存・利用計画が作られていてもおかしくなかったのである。

しかし、その後の国際情勢の展開は全く逆方向をたどった。米ソ冷戦下で核兵器開発競争がますます激化し、日本政府がアメリカに加担するなかでは、広島原爆ドーム広島市市民運動の手で保存される他なかった。そしてそのなかで“苦肉の策”として浮かび上がったのが、原爆ドーム世界遺産登録だったのである。たとえ、それが「人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めの物件」としての認定でなかったとしても、広島原爆ドーム世界遺産として登録され、平和希求の象徴として機能し続けるのであれば、核兵器・核戦争禁止運動の象徴として立派に生き続けることが可能だと考えられたからだ。

731研究所が広島原爆ドーム世界遺産登録を「成功例」だと見なしたのは、実はこれとよく似た事情が日中両国政府間にも存在するからだろう。周知のごとく日本政府は731部隊の存在を一貫して隠蔽してきたし、現在に至るもその犯罪事実を認めようとしない。教科書への記述もままならない有様だ。また被害者の賠償請求に対しては、「1972年の日中共同声明で中国は戦争賠償の請求を放棄した」と一貫して主張し、一切の賠償請求に応じてこなかった。最高裁判決も731被害者の賠償請求訴訟を棄却した。

一方、中国政府も日中共同声明以来、日本の戦争責任追及を前面に出して賠償責任を迫るようなことがなくなった。中国にとっては日本からの経済投資を可能な限り呼び込み、新興国としての国際的地位を一刻も早く確立したいとの思惑があったのであろう。そのため、過去の歴史にはこだわらないとするいわゆる「未来志向」の外交政策が採られることになった。731部隊遺跡跡地の保存が国家事業として取り組まれなかった背景には、中国政府の対日政策の変化があったと言える。

このような複雑な政治情勢の下での731部隊遺跡跡地保存の経過をごく大雑把にたどってみると、(1)当初、中国国内で遺跡保存の必要性を強く主張していたのは、731陳列館の旧館長(故人)などごく少数の個人だった、(2)その努力と日本での森村誠一氏の出版が結びつき、731部隊の全容が歴史上はじめて明らかになった、(3)この時点でハルビン市や黒竜江省731部隊遺跡跡地に注目することになり、予算は少ないものの保存調査をする体制が一応整えられた、(4)その後の調査活動は資金不足で遅々として進まなかったが、中国関係者の懸命の努力とこれを支援する日本人諸団体の資金援助などによって遺跡跡地の一部が発掘され陳列館がオープンするところまできた、ということになる。

しかし誰のアイデアか知らないが、このささやかな動きに一大インパクトを与えたのが世界遺産登録という構想だったのではないか。731陳列館では1990年代後半から世界遺産登録申請作業が始まり、2000年には731部隊跡地の民家143戸と企業12社を移転させて本格的な発掘調査が行われた。そして2002年末には、中国都市計画設計研究院の専門家らが遺跡保存整備計画を作成する段階にまで到達した。計画の趣旨は731部隊跡地を「世界戦争遺跡公園」(仮称)として再建するというものだ。

計画の概要は、(1)部隊跡地に散在する26か所の遺跡を「重点保護区」(遺跡本体を構造的に保存する区域)と「一般保護区」(遺跡周辺を整備する区域)に分ける、(2)破壊されている施設は構造的に補強して安全性を確保し、可能な限り原型保存する。また増改築された部分は撤去・復元する、(3)重点保護区においても、住宅、店舗、工場、倉庫、事務所、学校宿舎などとして現在使用されている施設、とりわけ「部隊員家族宿舎」などは居住者にそのまま使用を認める、という柔軟なものである。

この発想は、遺跡跡地を復元して凍結的に保存しようとするのではなく、部隊員家族宿舎などすでに一般市街地化している地域はその現状を否定することなく保存整備計画に取り込み、むしろそのことの特徴を活かした世界遺産登録を目指しているようにも思える。言い換えれば、日本軍によって破壊され放置されていた731部隊遺跡跡地を、そこに住みついた住民たちも含めて“動態保存”する、中国風にいえば、「使用保護」しようとするのがこの計画の特徴だといえる。

現在、世界遺産に登録されている多くの文化遺産・自然遺産・複合遺産は、その顕著な普遍的価値を現状保存することが基本になっている。そしてその価値が損なわれたときは「危機遺産」に指定され、損傷が限度を超えると登録が抹消される仕組みになっている。しかし731部隊遺跡跡地の場合は徹底的に破壊された遺跡跡地を保存・修復・再生させることが基本である以上、新しい世界遺産を生み出す可能性を秘めている。私は731陳列館や研究所関係者との意見交換会でこのことを発言したところ、多くの出席者から賛同が得られた。

次回は、731部隊施設の建設に携わった日本の建設業に関する私の個人的調査(結果はわからなかった)を以て、今回の訪問記を終えることにしたい。(つづく)


【付記】
 ハルビン731部隊に関する拙ブログは掲載時から相当な時間が経過したにもかかわらず、いまだ以って多くのアクセスが絶えない。そこでまとまった論文として『15年戦争と日本の医療医学研究会誌』12巻1号(2011年12月)に発表した2編を、長文ではあるが『付記』として追加したい。2014年10月5日 広原記。

中国東北部ハルビン731部隊遺跡訪問記〜731部隊遺跡の世界遺産登録をめぐって〜
広原盛明(京都府立大学名誉教授、建築・都市計画学)

1.ハルビンと私
 満州事変80周年を直前にした2011年9月13日から17日の5日間、「15年戦争と日本の医学医療研究会」(以下、「戦医研」という)の第9次訪中調査団のオブザーバーとしてハルビン市を訪れた。今回の訪中団は7名、内訳は医師3名、医学者1名、医学部学生と外国語学部学生各1名、そして私である。医学にも歴史学にも門外漢の私がなぜ参加したかというと、(1)ハルビン生まれであること、(2)731部隊に関心があること、(3)戦医研会員に知己がいること、(4)731部隊遺跡の世界遺産登録の準備が進められており、都市計画的視点からの意見を求められたことなどによる。
 黒竜江省省都ハルビン市は、19世紀末から第1次世界大戦前にかけて帝政ロシア満州進出と極東経営の拠点として建設した国際都市である。その愛称は「東方のモスクワ」「東洋のパリ・ウイーン」などといわれ、ヨーロッパ・ロシア建築に覆われた国際色豊かな美しい都市だった。1932年の「満州国」建国以前から日本人が移り住み、日本人幼稚園・小学校・中学校・高等女学校・商業学校なども数多く設立された。満鉄技師としてハルビンに赴任した私の父もかくなる日本人の一員であり、私はその末裔というわけだ。
 京都には「ハルビン会」という組織がある。その中心はハルビン最初の日本人小学校・桃山小学校の同窓会である。桃山小学校の前身は1909(明治42)年創立の西本願寺付属小学校(児童数4人)だが、その後1920(大正9)年に満鉄設立哈爾濱尋常高等小学校となり、1936(昭和11)年に哈爾濱桃山尋常高等小学校に改称されて以来、1945(昭和20)年の終戦まで桃山小学校と呼ばれていた。同小学校は、現在ハルビン市立兆麟小学校として建物のほとんどが継承され(エントランスホール部分が建て替え)、ハルビン切っての名門校になっている。
 兆麟小学校へは調査日程の一部を割いて3日目に訪問した。突然の訪問にもかかわらず私たちは先生方に温かく迎えられ、校舎はもとより授業中の子どもたちの様子をありのまま見せていただいた。歴史的建造物とも言える校舎は丁寧に維持管理され、建設時の美しい様相を保っていた。子どもたちは圧倒的に中国籍だというが、少数ながら白系ロシア人の子どもたちの姿も見られた。

2.ハルビン日本人小学校同窓会
 なぜ731部隊遺跡の前に桃山小学校のことを書いたかというと、私は小学校入学以前に内地に帰国したにもかかわらず、「ハルビン生まれ」というだけで京都の「ハルビン会」に入れていただき、桃山小学校同窓会の方々から当時のことをいろいろと教わってきたからである。しかし731部隊のことはタブーになっていたのか、それとも関係者が誰もいなかったのか、とにかく731部隊の名は一度も聞いたことがなかった。
 桃山小学校同窓会は、1999年6月に京都で「ハルビン桃山小学校同窓会創立90周年記念大会」を開き、参加者名簿によれば全国各地から教職員29人、卒業生437人、計466人もの多数の同窓生が参加している。そのとき、『回想の哈爾濱、哈爾濱桃山小学校創立九十年記念誌』が発行され、桃山小学校の歴史や同窓生の数々の手記、それに兆麟小学校の張校長からのお祝いの言葉なども掲載されている。私も一部贈呈を受けた。
 記念誌にはまた教職員・同窓生名簿が添付され、10期生(1923年、大正12年卒業)から39期生(1945年、昭和20年入学)に至るまで、同窓生氏名(旧姓も含めて)と現住所が収録されている。各期の消息不明者、物故者の氏名も掲載されているから、当時の在籍者をほぼ全て掌握したうえで名簿が作成されたものと思われる。国内の小学校でもこれだけ詳細な名簿を過去に遡って作成することは容易でないが、それが敗戦時の混乱を超えて同窓会が継承され、しかも終戦から半世紀以上も経ってこれほど詳細な同窓会名簿が作成されるのであるから、桃山小学校同窓生の熱意とネットワークの緊密さには並々ならぬものがある。
 ちなみに90周年記念同窓会が開催された1999年当時の教職員・同窓生名簿から生存者、消息不明者、物故者、在籍者合計の人数を数えてみると、教職員の内訳は、生存者50人、物故者49人、不明者2人、在籍者合計101人である。同窓生の内訳は、生存者1352人、物故者207人、不明者66人、在籍者合計1625人になる。この数字がもし正確だとすると、1999年の記念大会には、教職員生存者の58%、同窓生生存者の32%が全国各地から参加したことになり、これも驚異的な数字だという他はない。

3.731部隊の東郷小学校
 ところが、この記念大会の実行委員を務めたある33期生の話によれば、90周年記念同窓会の話題が全国各地の新聞記事として紹介されると、ある日「東郷小学校」出身のT氏(1932年、昭和7年生まれ)が同氏を突然訪ねてきたのだという。ハルビンの日本人小学校は桃山・花園・桜・白梅・三稞樹・若松の6校とばかり思っていた同氏は、このときはじめて東郷小学校が731部隊内の小学校であることを知ったというのである。このことは、ハルビン日本人小学校の歴史に詳しい同窓会幹部にとっても東郷小学校の存在は知られておらず、731部隊と同じく東郷小学校も秘匿された存在だったことを意味するのではないか。
 敗戦直後、731部隊関係者は戦争犯罪を秘匿して戦犯追及を免れるため、関東軍の指令によって最優先で日本に帰国した。このとき、731部隊の居住区である「東郷村」に住み、「東郷小学校」に通っていた関係者家族も相前後して帰国した。ただし「一切の事を口外しない」という誓約の下である。こうして日本に帰国した731部隊関係者家族は、ハルビン時代の思い出を死ぬまで封じ込めることになった。ただ全てを「墓場に持っていけない」当時の子どもたちの一部が「ハルビン桃山同窓会」の懐かしい新聞記事を見て、ハルビン会を訪ねてきたのである。
東郷小学校(国民学校)卒業生の消息はその後も杳(よう)として分からず、したがって当時の記録も絶無である。だが私は、昨年ハルビン会から送られてきた1冊の記念文集の中にたまたま「それらしき」在校生Hさんの手記を発見した。そこには「東郷小学校」という名前は記されていないが、文中に記された情景はまぎれもなくそれらしく読めるのである。以下、その一節を紹介したい。なお出典は、ハルビン中学・ハルビン商業・富士高女・扶桑高女・ハルビン医大の各卒業生57人が綴った傘寿記念文集、『昔、ハルビンにいた、PARTⅡ』(ハルビン会編集、2010年、私家版)である。
 「小学校3年のとき、遠い満州へ行くことになりました。3日3晩の旅の末に着いたハルビン馬家溝宣知街。すぐ近くにあった代用官舎の東側の棟に私達家族は住むことになりました。兄は4年生でしたので白梅小学校、私は3年生だったので花園小学校に入りました。4年生からは兄と同じ白梅、2組だったように思います。(略)5年生のとき父の行っている部隊に小学校が出来て、部隊の官舎に移りました。兄が6年生、私が5年生。複式学級で同じ先生に教えて頂きました。兄は翌年4月から部隊のバスで哈爾濱商業に通い、私は次の年に富士高女にバス通学することになりました。戦争も激しくなってきて、開拓団へ勤労奉仕に行き、そのあと陸軍病院にも動員されました。そのうちに女学校のすずらん寮のすぐ近くに軍隊の女子寮、星輝寮ができたのでそこから通学しました。3年生の8月6日、突然、部隊から迎えが来たのですぐに帰宅しました。家族で35両連ねた無蓋車に乗ってハルビンを離れました。途中で日本の敗戦を知りました。(略)」
 もしこれが731部隊の東郷小学校だとすると、Hさんは2010年現在80歳だから、満州に渡って花園小学校に入ったのが小学校3年生の1938(昭和13)年、(731)部隊に新しい(東郷)小学校ができて転校したのが小学校5年生の1940(昭和15)年、富士高女(旧ハルビン高女)に進学したのが1942(昭和17)年、敗戦で帰国したのが富士高女3年生の1945(昭和20)年ということになる。そして、(東郷)小学校は設立当初複式学級の小規模校であったこと、富士高女近くに軍専用の「星輝寮」という名の女子寮が1942(昭和17)年以降につくられたことなどがわかる。
 なお731部隊は、ソ連が参戦した1945年8月9日に関東軍参謀本部から施設爆破を命じられ、8月11日から撤退を開始しているが、この手記によれば、Hさんは8月6日に部隊からの迎えで帰宅し、その後35両の無蓋車で家族一緒に組織的に撤退している。この記念文集では多くの人たちが命からがらに引き揚げ体験や苦しみを語っているが、Hさんの場合が例外であることを考えると、やはり731部隊関係者であった可能性が大きいと思われる。
また、これは別の富士高女同窓生の手記であるが、「沖縄の玉砕が伝えられる頃、仲良くしていたSさんが「家族が急に日本に帰る事になったので」とわざわざお別れに来た。後にその友達のお父さんは七三一部隊(石井部隊)だった事を知った」とある。これは女学校の親友の間でも、東郷小学校出身(731部隊関係者)であることが伏せられていたことを示す手記であろう。
 なお、別稿の『731部隊を建設した日本の建設業者』のなかに、731部隊に隣接している第8372部隊(航空隊)のことを書いた。上記の記念文集のなかのハルビン中学卒業生・Oさんの手記には、「三年(昭和19年、1944年)になると、水曲柳の開拓団へ一カ月、平房の飛行隊へ一週間ずつ二回勤労奉仕に行きました。四年(昭和20年、1945年)は動員で北機械製作所(満州飛行隊)へ行き、旋盤工をしていました」との記述がある。平房飛行場とはおそらく第8372部隊のことであり、日本人中学生が勤労奉仕に動員されていたことが分かる。
また、第8372部隊の地図には「小学校」と記された建物が記載されていて、日本人小学校のものと推察されるが、その名称は過去の文献を調べてみてもわからなかった。

4.平房区の印象
 今回の731部隊遺跡訪問は、学生と私が初めての訪問ということもあり、またこの間の中国側の調査研究や遺跡跡地保存整備計画が急速に進んでいることもあって、731部隊本拠地の平房区遺跡と陳列館展示物およびハルビン市内の関連施設遺跡の視察に相当の時間が割かれることになった。このことは都市計画的視点から遺跡のあり方を考える上で大いに参考になったし、また現在、同遺跡の世界遺産登録の準備を進めている中国側との意見交換の上でも非常に役立った。とりわけ731部隊の根拠地であり、遺跡周辺で急速に市街化が進んでいる平房区の姿が印象的だった。
 率直に言って、731陳列館の細菌・化学兵器に関する膨大な展示物は専門的知識が必要なこともあり、私がどれだけ理解できたかについては自信がない。しかし「百聞一見に如かず」との言葉もあるように、およそ6キロ四方(正確には37.7平方キロ)の731部隊遺跡の一角に立った時、森村誠一氏の著作(『悪魔の飽食』など)をはじめ、これ
まで読んできた数々の断片情報が身体のなかで一瞬にして立体化するのを感じた。
 ハルビン中心市街地から南へ約20キロ離れている平房区は、かっては人影もまばらな農村地帯だった。それが1936(昭和11)年春のある日、関東軍が散在する農村の中央部に突然「特別軍事地域」を設定し、1600戸余りの農家に対して期限を切って強制立ち退きを命じた。その日から測量が始まり、3年後には一大軍事基地が姿を現した。荒
涼たる大地のなかの高電圧鉄条網、塀、空堀で囲われた広大な秘密基地・・・、これが抱いていた私の731部隊のイメージだった。ところが今回私たちが訪れた平房区は、急成長しつつある大都市圏郊外の市街地に一変していた。ハルビン市区のなかでもこれまで比較的都市化の遅れていた平房区は、目下急ピッチで工場開発・住宅地開発が進
んでおり、地区の至る所で工事用クレーンが林立していた。
 無理もない。もうあれからもう70年余りも経っているのである。1940(昭和15)年の国勢調査当時、人口約61万人だったハルビン市は、2008年現在市区人口(中心市街地人口)267万人、都市圏人口(通勤通学圏人口)475万人、総人口(行政区域人口)987万人の大都市へと成長している。さらに現在、中国政府の「東北部大開発」路線によって急成長に次ぐ急成長を遂げつつある。平房区人口はまだ20万人に達していないが、現在進行中の開発速度からみると、あと10年で30万人に達するのはほぼ確実と思われる。とにかく凄まじい勢いで田園地帯の都市化が進んでいるのであり、このままでいくと、731部隊遺跡(跡地)は影もなく呑みこまれかねない勢いである。

5.731部隊遺跡(跡地)保護の歩み
 なぜこのようなことを書くかというと、731部隊遺跡(跡地)を取り巻く周辺市街地状況がこれまでとは一変し、これから先はさらに大規模な都市開発ブームが進むために、よほど計画的な保存整備事業を進めなければ遺跡自体が市街化の波に呑まれてしまう可能性があるからである。
 この間の事情は、金成民731部隊陳列館館長の論文、「731部隊跡地の価値の調査・評価、現状保護及び計画」(『15年戦争と日本の医学医療研究会会誌』第11巻第2号、2011年5月)の付記、「731部隊遺跡跡地を保護する歩み」によって知ることができる。金論文は、遺跡跡地保護の歩みを4段階分け、(1)第1段階:1945〜81年、(2)第2段階:1982〜98年、(3)第3段階:1999〜2005年、(4)第4段階:2006年〜現在に区分している。
第1段階は、731部隊が研究施設を爆破して撤退してから約30数年間、遺跡(跡地)保護が政府からも自治体からも事実上放置されていた時期である。周辺の工場や企業が遺跡(跡地)内で(勝手に)工場や社宅を建てて操業し、また焼け残った隊員宿舎には多くの新規住民が移り住んだ。これは私の推測だが、日本でも戦後の混乱期には戦災で家を失った人や引揚者たちが軍施設を占拠して雨露を凌いでいた時期があったように、中国でも同様のことが起こったのであろう。そしてこのような占拠状態が長引くと、やがて土地や住宅は居住者に払下げとなり、住宅の改造や増築あるいは建て替えや新築も自由に行われることになる。このままの状態が続けば、731部隊の遺跡(跡地)は遠からず消えて行くことが確実だったと思われる。
 第2段階は、中国政府が「日本の中国侵略罪行遺跡を保護する通知」(1982年10月)を発布し、それを契機にハルビン市が調査研究機関を設立して遺跡(跡地)保護の作業を開始した時期である。ハルビン市は、黒竜江省の援助も得て731陳列館の建設や展示物の公開、跡地内の特別保護区域・重点保護区域・一般保護区域の設定などこの間着実に保護活動を具体化させた。
思うに中国政府の731部隊遺跡(跡地)保護のきっかけが、森村誠一氏と下里正樹氏による精力的な731部隊に関する検証作業であり、それを基にして発行されたベストセラー『悪魔の飽食』シリーズ(1981年11月〜82年7月)の影響によるものであったことは間違いない。両氏によって明らかにされた「関東軍防疫給水部本部満州七三一部隊要図」および731部隊航空班・写真班によって撮影された731部隊全景写真は、いくら強調しても足りないほどの重要な歴史的資料であり、遺跡(跡地)の要所々々に建てられている案内図には、森村氏からの引用と断って731部隊の施設配置図と全景写真が大きく掲げられている。
 第3段階は、ハルビン市と黒竜江省が保護計画にしたがって第1期遺跡(跡地)保護事業を実施した時期である。遺跡(跡地)の上に建てられていた143戸の住宅と12企業を移転させて遺跡(跡地)の部分的発掘と修復など一連の整備作業が行われ、整備された遺跡(跡地)が公開された。漸くにして731部隊遺跡(跡地)の一角が姿を現したのである。これと同時に731遺跡(跡地)を世界遺産に登録するプランがハルビン市社会科学院や平房区政府などから提起され、世界遺産を目指して保護活動を一層拡大していくことが確認されて活動が始まった。
第4段階は、731部隊遺跡(跡地)が政府国務院から「全国重点文物保護単位」(2006年5月)として公布されたことを契機に国家文物局が調査に訪れ、遺跡(跡地)の保存利用計画が国家プロジェクトとして本格的に推進されるようになった時期である。ハルビン市は遺跡(跡地)の中央部を保護区として整備するため、目下186戸の住宅と11企業の移転問題に取り組んでいる。しかし日本でもあるように、都市再開発にともなう住宅、店舗、事務所、工場などの移転は容易でない。731部隊遺跡(跡地)の保存整備計画は、現存する遺跡や跡地をそのまま保存するのではなく、その上に住んでいる住民や企業の移転を含めて考えなければならないことに特別の困難さがある。

6.世界遺産の登録基準
 731陳列館に隣接して、充実した公開資料室がある。731部隊に関する各種の原資料、731部隊について書かれた中国・日本などの出版物や文献資料、そして陳列館や研究所から発行された頒布用の書籍、冊子、写真集、絵葉書、バッジ類などが所狭しと並んでいる。日本からの観光客や訪問団の人びともここには必ず立ち寄り、お土産か研究資料かしらないが結構沢山買って帰るということを聞いた。
後でわかったことだが、実はこの資料室の中に世界遺産登録のための準備資料一式があったらしい。しかし残念なことに私は中国語が読めないし、またこのときは時間の余裕がなかったので資料の存在に気付かなかった。だから、これから述べることはすでに中国側で検討されていることかもしれないし、あるいは的外れのコメントになるかもしれない。
 まず、世界遺産についての一通りの予備知識から始めよう。周知のごとく、世界遺産には顕著な普遍的価値をもつ建築物や遺跡などの「文化遺産」、同じく顕著な普遍的価値をもつ地形、生物、景観などの「自然遺産」、そして文化と自然の両面で顕著な普遍的価値を兼ね備えた「複合遺産」の3種類がある。しかしこれだけであれば、731部隊遺跡跡地は入りようがない。
 ところが、ナチスアウシュヴィッツ強制収容所(1979年登録)や広島原爆ドーム(1996年登録)の事例にもあるように、「負の世界遺産」ともいうべき一群の世界遺産が存在する。これは世界遺産のなかでも「人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めとなる物件」を指すとされ、アウシュヴィッツ強制収容所世界遺産登録がはじまった翌年に早くも登録されている。731部隊遺跡(跡地)が世界遺産登録に該当するとすれば、おそらくはこのカテゴリに入るのではないかと思われる。
世界遺産に登録されるためには、10ある登録基準の中の少なくともどれかを満たし、かつ世界遺産委員会の認定を受けなければならない。だがいわゆる「負の世界遺産」の場合は、第6基準の「顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの」という内容が基本になっている。世界遺産委員会はこの第6基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと考えているようだが、広島原爆ドームは第6基準だけで登録された。
 問題は、アウシュヴィッツ強制収容所の登録に際して、「この遺跡は唯一のものであって、類似の遺跡は今後制限する」との世界遺産委員会の付帯決議が盛り込まれたことだ。なぜこのような付帯決議がわざわざ盛り込まれたかについては推測する他はないが、「人類の叡智を表現する傑作」「人類の価値の重要な交流を示すもの」「文化的伝統または文明の稀な証拠」などの登録基準にもみられるように、世界遺産登録の趣旨はもともと人類の創造的発展の側面に光を当てようとするものであって、負の側面については必ずしも考慮していなかったように思える。しかし、アウシュヴィッツ強制収容所のような「負の遺産」の存在を無視することができなかったために、これを例外的な事例として認めざるを得なかったということではないだろうか。
 また広島原爆ドームの場合は、アメリカが戦争遺跡を世界遺産に含めること自体に反対し委員会が紛糾した。これは広島原爆ドームをもし「人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めとなる物件」だと認定すれば、第2次世界大戦を終結させるためには原爆投下が必要であり、原爆投下は正当行為だとするアメリカの公式見解を否定することになるからである。したがってこのときの妥協的な措置として、広島原爆ドームの価値はあくまでも平和希求の象徴としてのものであり、「戦争遺跡」とはみなされないことになった。

7.広島原爆ドームは先行例になるか 
 この点に関して731研究所は、最近『広島原爆ドーム世界遺産登録成功経験に関する参考研究』(2011年6月)をまとめた。731陳列館と731研究所の共同編集で発行された『学術通信』第1期(2011年7月)によれば、その要旨は「日本の広島原爆ドームは1996年に世界遺産に登録され、その世界遺産化への成功経験は参考にする価値がある。七三一部隊遺跡は、広島原爆ドームと共に第二次世界大戦の重要な歴史遺跡であり、後世への戒めとして平和を愛する精神を永く伝える重要な意義を持っている」というものである。
皮肉なことに、中国は広島原爆ドームの登録に際してはこのとき棄権している。その理由は「第2次世界大戦において日本はアジア諸国に多大の人命・財産の損害を与えたにもかかわらず、日本国内にはこの事実を否定しようとする人びとがおり、広島原爆ド―ムの世界遺産登録はこれらの人びとに悪用される恐れがある。よって世界平和と安全に寄与することにならない」というものである。しかし中国がいま改めて広島原爆ドーム世界遺産登録を成功例だと評価し、その線に沿って731部隊遺跡(跡地)の世界遺産登録を目指すのであれば、これは日中関係に関する注目すべき歴史認識の変化であり、731部隊遺跡跡地の保存整備計画にも大きな影響を与えることになるだろう。
 私自身は、731部隊遺跡(跡地)の保存利用計画をめぐるこれまでの経緯を必ずしも詳しくフォローしているわけではない。したがって中国国内での動きやこれを支援する日本の平和運動諸団体の意見を一応参考にしながらも、ここでは主として私自身の個人的感想や意見を述べてみたいと思う。
 まず今回の世界遺産登録にあたって問題となるのは、アウシュヴィッツ強制収容所の登録に際して、「この遺跡は唯一のものであって、類似の遺跡は今後制限する」との世界遺産委員会の付帯決議をどうクリアーするかということである。広島原爆ドームの場合は、アメリカが戦争遺跡を世界遺産に含めること自体に反対したため、広島原爆ドームは平和希求の象徴であって「戦争遺跡」とはみなされなかった。いわば「広島平和公園」の中核施設としての原爆ドームの位置づけである。
 この間の政治情勢との関係でいえば、日本政府がアジア太平洋戦争の加害者としての戦争責任を認め、かつ原爆投下に対するアメリカの国際法上の責任追及を明確にする立場にあればともかく、そうでなかったことが広島市民をはじめ日本の平和運動関係者をして原爆ドームの保存運動に向かわせることになり、その一環として世界遺産登録が浮かび上がったということであろう。言い換えれば、日米両政府が戦争について「二度と誤りを繰り返さない」ことを誓い、核兵器開発や核戦争の全面禁止に踏み切っていれば、日米合同で原爆遺跡跡地の保存利用計画が作られていてもおかしくなかったのである。
 しかし、その後の国際情勢の展開は全く逆方向をたどった。米ソ冷戦下で核兵器開発競争がますます激化し、日本政府がアメリカに加担するなかでは広島原爆ドーム広島市市民運動の手で保存される他なかった。そしてそのなかで“苦肉の策”として浮かび上がったのが、原爆ドーム世界遺産登録だったのである。たとえ、それが「人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めの物件」としての認定でなかったとしても、広島原爆ドーム世界遺産として登録され、平和希求の象徴として機能し続けるのであれば、核兵器・核戦争禁止運動の象徴として立派に生き続けることが可能だと考えられたからである。

8.日中関係の変化 
 731研究所が広島原爆ドーム世界遺産登録を「成功例」だと見なしたのは、実はこれとよく似た事情が日中両国政府間にも存在するからであろう。周知のごとく日本政府は731部隊の存在を隠蔽してきたし、現在に至るもいまだその犯罪事実を認めようとせず、教科書への記述もままならない状況である。また被害者の賠償請求に対しては、日本政府は「1972年の日中共同声明で中国は戦争賠償の請求を放棄した」と一貫して主張し、一切の賠償請求に応じてこなかった。最高裁判決も731被害者の賠償請求訴訟を棄却した。
 にもかかわらず中国政府は日中共同声明以来、日本の戦争責任追及を前面に出して賠償責任を強く迫るようなことがなくなった。中国にとっては日本からの経済投資を可能な限り呼び込み、新興国としての国際的地位を一刻も早く確立したいとの国家戦略のもとで、過去の歴史にはこだわらないいわゆる「未来志向」の外交政策が採られることになったからである。731部隊遺跡(跡地)の保存利用計画がこれまで国家事業として取り組まれなかった背景には、中国政府がこのことで日本政府をあまり刺激したくないとの思惑があったからだと言えよう。
 このような複雑な政治情勢の下での731部隊遺跡(跡地)保存のこれまでの経過をごく大雑把にたどってみると、(1)当初、中国国内で遺跡保存の必要性を強く主張していたのは、731陳列館の旧館長(故人)などごく少数の個人だった、(2)その努力と日本での森村誠一氏らの出版が結びつき、731部隊の全容が歴史上はじめて明らかになった、(3)この時点でハルビン市や黒竜江省731部隊遺跡(跡地)に注目することになり、予算は少ないものの保存調査をする体制が一応整えられた、(4)その後の調査活動は資金不足で遅々として進まなかったが、中国関係者の懸命の努力とこれを支援する日本人諸団体の資金援助などによって遺跡(跡地)の一部が発掘され陳列館がオープンするところまできた、ということになろう。
しかし、このささやかな動きに一大インパクトを与えたのが「世界遺産登録」という構想だったのではないか。つまり経済交流を中心に展開している現在の日中関係のもとでは、731部隊およびそれに象徴される日本政府の戦争責任を真正面から追求するという政治路線が困難である以上、その“迂回作戦”として「世界遺産登録」という構想が浮かび上がったということであろう。

9.保存・修復・再生の可視化
 731陳列館では1990年代後半から世界遺産登録申請作業が始まり、2000年には731部隊跡地の民家143戸と企業12社を移転させて本格的な発掘調査が行われた。そして2002年末には、中国都市計画設計研究院の専門家らが遺跡保存整備計画を作成する段階にまで到達した。計画の趣旨は731部隊(跡地)を「世界戦争遺跡公園」(仮称)として再建するというものである。
 計画の概要は、(1)部隊跡地に散在する26か所の遺跡を「重点保護区」(遺跡本体を構造的に保存する区域)と「一般保護区」(遺跡周辺を整備する区域)
に分ける、(2)破壊されている施設は構造的に補強して安全性を確保し、可能な限り原型保存する。また増改築された部分は撤去・復元する、(3)重点保護区においても、住宅、店舗、工場、倉庫、事務所、学校宿舎などとして現在使用されている施設、とりわけ「部隊員家族宿舎」などは居住者にそのまま使用を認める、という柔軟なものである。
 この発想は遺跡(跡地)を凍結的に保存しようとするのではなく、部隊員家族宿舎などすでに一般市街地化している地域はその現状を否定することなく保存整備計画に取り込み、むしろそのことの特徴を活かした世界遺産登録を目指すものであろう。言い換えれば、日本軍によって破壊され放置されていた731部隊遺跡(跡地)をそこに住みついた住民たちも含めて“動態保存”する、中国風にいえば、「使用保護」しようとするのがこの計画の特徴だといえる。
 現在、世界遺産に登録されている多くの文化遺産・自然遺産・複合遺産は、その顕著な普遍的価値を現状保存することが基本になっている。そしてその価値が損なわれたときは「危機遺産」に指定され、損傷が限度を超えると登録が抹消される仕組みになっている。しかし731部隊遺跡(跡地)の場合は、徹底的に破壊された遺跡(跡地)を保存・修復・再生させることが基本である以上、単なる現状保存すなわち凍結的保存はあまり意味がないように思える。
 731部隊遺跡(跡地)の価値は、破壊と荒廃の中から関係者の懸命の努力によって消滅の危機を乗り越え、それを再び「人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めとなる物件」として復元し、しかもそれを周辺住民の日常生活の中で再生しようとするところにある。このことは、新しい世界遺産を生み出す可能性を秘めているといえ、私が731陳列館や731研究所との意見交換会でこの趣旨のことを発言したところ、中国側の出席者もほぼ同様の認識であった。今後の着実な進展を期待したい。