村井知事は(自著出版で)なぜ野村総研との関係を隠すのか、宮城県震災復興計画を改めて問い直す(5)、(震災1周年の東北地方を訪ねて、その22)

自治体首長が在任中に自著を出版するのは並大抵のことではない。その暇もないほど多忙な公務に忙殺されるためだ。また同時進行形の業務や行動に対して首長自らがその全容を把握しかつ客観的に評価することは、余程の卓越した人物でなければ難しい。多くの政治家が退職後に「回顧録」を出すのは、自らの行動についての評価には一定(相当)の時間を要するからであり、まして被災自治体の首長ともなれば、在任中の自著出版など思いもよらないのではないか。

それにしても、村井知事は“稀有の人物”なのであろう。震災1周年に合わせて最近2冊もの自著を同時に出版したのである。『復興に命をかける』(PHP研究所、2012年3月)、『それでも東北は負けない―宮城県知事が綴る3・11の真実と未来への希望』(ワニブックス【PLUS新書】、2012年3月)の2冊がそれである。

村井知事自身が本当にペンを取ったのか、口述した内容を他の誰かがまとめたのか、知事担当のゴーストライターがいたのか、そんな裏側の事情は私の知るところではない。でも「宮城県知事」という公職の肩書の付いた著書だから、その内容には厳しい政治的・社会的責任がつきまとう。それに2冊の著書のうち、前者は松下政経塾と姉妹関係にある「PHP研究所」(松下幸之助創設の出版会社、現在はシンクタンクとしても活動している)からの出版である以上、松下政経塾が13期塾生・村井知事の著書の内容を公認し、その意味で“松下政経塾のお墨付き”ともいうべき出版だとも受け取れる。  
また後者の新書の方は、サブタイトルに「宮城県知事が綴る3・11の真実」と謳っており、東日本大震災に遭遇した地元知事が「真実を語る」というのが、この本の謳い文句となっている。だから新書という読みやすい形式もあって、多くの読者は、村井知事が「真実を語った」ものとして内容をそのまま受け取るにちがいない。

しかし、政治家の回顧録が(私的な日記でさえも)後世の歴史家の容赦ない検証に曝されるように、そこで書かれていることが必ずしも真実とは限らない。そのときに取った自分の行動や判断の「正当性」を主張するために、政治家が歴史的事実を曲げて(さえ)自叙伝や回顧録を執筆することは往々にしてよくあることだからである。

阪神・淡路大震災のときも、貝原(元)兵庫県知事をはじめとして多くの関係者が回顧録を出版した。それらは大震災に関する貴重な証言(のひとつ)であることには間違いないが、歴史的事実に耐えられる証言であるかどうかについては、その後の経過も含めて厳密な検証が必要になる。

私は阪神・淡路大震災から6年後に「阪神・淡路大震災における震災復興都市計画の検証」(原田純孝編、『日本の都市法Ⅱ、諸相と動態』、東大出版会、2001年5月)という論文を書いた。そこで貝原知事の提唱した「復旧でなく創造的復興」という復興理念が、被災者の生活再建を二の次にした他ならぬ“大ハコモノ計画”であり、当時の大蔵省すらが「焼け太り計画」だと批判していたことを明らかにした。

だが、それから十数年の時間が経過すると、東日本大震災においても「歴史は二度繰り返される」ようになる。村井知事は、著書の中で復興構想会議に出席した貝原元兵庫県知事の発言を繰り返し引用して、貝原氏の「創造的復興論」に強く影響されたことを次のように記している。(以下、『復興に命をかける』、第3章「将来の発展を見すえた復興計画を」)

「復興構想会議の中で特に印象に残ったのが、3回目の会議で貝原俊民さんが参考人として招致された時のお話でした。貝原さんは17年前に阪神・淡路大震災が起こった時の兵庫県知事をされていた方です。内容は、17年前の阪神・淡路大震災の際は「復旧」すなわち“元に戻す”ということの対策しかできなかった。震災後10年間経って街はきれいに戻ったものの、その間に中国や韓国、シンガポールといったところが国をあげて立派な港を整備したため、神戸港が元通りになった時には以前のような活気は戻ってこなかった。あの時に10年先の世界情勢を見据えた神戸港を造ることを国が認めてくれていれば、こういうことにならなかったのにという思いを持っている―というものでした。」

「私はそれを聞いて、まさにその通りだと思いました。今回の大震災からの復興は、沿岸部の少子高齢化、人口減少が進む地域の立て直しであり、これが成功すれば今後の日本の沿岸部の街のあり方を日本社会に提示できます。ただ単に元に戻せばいいという「復旧」というスタンスではなく、新たな宮城、新たな東北をつくる、そしてこれこそが10年後の日本のモデルだというものを目指すべきとの意を強くしました。」

「本来なら、県の計画は国の法案や計画というものが出来上がってから策定しますが、時間との闘いであるということ、被災地の考え明確にすることで国をリードする必要があるとの考えから、今回は県が国に先んじて計画を作り、策定の過程で次々と国に対して提案するというスタイルで臨むことにしました。」

だが、同時代史的な検証作業の一環としての私の復興政策研究からすれば、村井知事のこの部分の記述には重大な齟齬あるいは意図的な事実のすり替えがある。それは、貝原元兵庫県知事が出席した復興構想会議の第3回会議(2011年4月30日)以前に、正確に言えば復興構想会議発足段階の閣議決定(4月11日)において、「単なる復旧ではなく、未来に向けた創造的復興を目指す」という構造改革的復興理念はすでに方向づけられていたからである。

にもかかわらず、村井知事が殊更に貝原発言を強調するのはなぜか。私は、そこに財界と野村総研および政府と宮城県を結ぶ「出来レース」を隠そうとする村井知事の政治的意図を感じる。このことは、野村総研宮城県との関係を大々的に吹聴しているにもかかわらず、また宮城県復興計画の策定が実質的に野村総研の手で仕切られているにもかかわらず、村井知事の2冊の著書のなかには野村総研の名前が一度も出てこないことでも傍証される。宮城県の復興計画はすべて村井知事のイニシャティブで策定されたことになっており、野村総研の名前は「黒幕」よろしく完全に抹殺されているのである。(つづく)