前回の岩手県シリーズでは、市町村レベルの復興計画の注目すべき事例として山田町の復興計画を取り上げた。山田町は平成大合併の大波にも呑みこまれることなく町政を維持し、また東日本大震災の復興に際しては高台移転計画偏重のきらいがあるとは言え、旧村単位の市街地・集落の再生を基本とした「地区別復興計画」をきめ細かく積み上げるなど、住民の生活再建に向き合う基礎自治体としての役割を果たしてきた。
これに対してあらゆる点で対極的な位置にあるのが、被災者をないがしろにした宮城県石巻市の震災復興計画だろう。私が宮城県の市町村レベルの復興計画を検証するにはどこがよいかと相談したところ、県内外専門家の多くは復興計画の「反面教師」として石巻市を取り上げるべきだと助言してくれた。なぜ、それほどにまで石巻市は注目されるのか。おそらくそこには、東日本大震災以前の約10年間にわたって展開された「平成大合併」の深刻な後遺症が“震災復興の機能不全”と言う形で典型的に表われているからだろう。
石巻市が、ホームページで最近公表した『石巻市の復興状況について』(2012年5月)という公文書がある。この文書のサブタイトルには、「最大の被災都市から世界の復興モデル都市石巻を目指して」と麗々しく掲げられているが、私はこのサブタイトルにこそ、“石巻市の悲劇”のすべてが凝縮されていると感じる。なぜなら「最大の被災都市」から「世界の復興モデル都市」への道程はあまりにも遠く、道半ばにして石巻市は「最大の被災都市」から「最大の難民都市」へ、そして「最大の棄民都市」へと転落していく可能性が大きいと思うからだ。
このように「最大の被災都市」でありながら「世界の復興モデル都市」を空見るには、亀山市長以下の市当局は、目前の被災者や被災地の窮状に徹底的に“鈍感”でなければならないのだろう。たとえば、中心市街地(旧石巻市)の復興には熱心であっても(「被災市街地復興推進地域の決定について」、2011年9月)、広域合併した周辺地域(旧雄勝町、旧牡鹿町など)の漁港一帯は、住民の反対運動にもかかわらず事実上建築制限をかけたままで建築行為を凍結し、「継続して震災復興におけるまちづくりの検討を行います」(同上)などと平然としていなければならないのである。
また「最大の被災都市」でありながら「世界の復興モデル都市」を目指すには、「最大の被災都市」になった原因の究明に関しても徹底的に“無関心・無責任”でなければならないのだろう。今回の震災で「最大の悲劇」といわれる大川小学校問題に関しても、亀山市長や市教育委員会のこれまでの態度は「無関心」「無責任」の一語に尽きる。朝日新聞の石巻支局長は次のように批判している。
「今回の震災で、教諭らによる避難誘導のなかでこれほどの犠牲者が出た学校はほかになかった。(略)震災後、石巻市教育委員会は避難の遅れの原因について明確にしようとせず、遺族側からの要求を受けて6月4日、父母への2回目の説明会を行った。震災からすでに3カ月近く。その席で災害対応のための「危機管理マニュアル」に津波を想定した避難場所が明記されていなかったことが明らかになったが、ここでも市教委側は惨事を招いた責任について正式の謝罪はせず、同席した亀山紘市長は「自然災害における宿命だと思っております」と発言し、遺族からの強い批判を浴びた」。(朝日新聞東日本大震災取材班、『闘う東北、朝日新聞記者が見た被災地の1年』、朝日新聞出版、2012年3月)。
このような被災者や犠牲者を冒涜する市当局の信じられない対応は、一体どこから出てくるのであろうか。それが市長個人の単なる資質問題であれば、辞職や選挙による交代でまだしも是正できるかもしれないが、ことはそう簡単な問題ではないようだ。そこには、浅野(前)知事と村井知事の宮城県政に貫通する住民無視の本質が露呈し、それが石巻市政の行動となって投影されているというべきであろう。以下、石巻市復興計画を宮城県政との関連において分析していきたい。(つづく)