宮城県土木部の“知事特命チーム”が石巻市復興計画の骨格を決めた、平成大合併がもたらした石巻市の悲劇(7)、(震災1周年の東北地方を訪ねて、その41)

 前回、震災後僅か2か月足らずで、石巻市の運命を左右しかねない復興計画の骨子が、『石巻の都市基盤整備に向けて』(2011年4月29日)という文書で市建設部から発表されたことを書いた。その手法は、阪神淡路大震災において神戸市都市計画局が震災1ヶ月余りで震災復興都市計画案を突如発表し、震災後2カ月で市民や避難者の反対を押し切って都市計画決定を強行した状況に酷似している。「計画官僚」(土木テクノクラート)という人種は、目前の被災者救済を放置しながら、なぜかくも「(土木)復興計画」づくりに熱中できるのか。

 周知のごとく石巻市役所は建物も職員も最大級の被害を受けたために、「復興計画」をつくる余裕など時間的にも能力的にもなかった。にもかかわらず、震災から僅か2か月足らずで「都市基盤整備案」という名の「(土木)復興計画」が出されたのは、その背後に宮城県土木部の“知事特命チーム”の支援・指導があったからだ。

 このブログで「東日本大震災1周年シリーズ」を書くことになったのは、今年3月に東北工業大学で開催された「東北建築フォーラム」に参加したことが切っ掛けだったが、フォーラムには宮城県土木部の幹部がパネリストの1人として参加していた。聞けば、4月1日に村井知事の特命を受けて「復興まちづくり推進チーム」を結成し、1週間余りで被災沿岸部7市7町(仙台市を除く)の「復興まちづくり計画(原案)」を急遽作成したのだという。

そして4月11日から21日にかけて、特命チームが「第1回各市町ヒアリング」を行って原案を提示し、被災自治体に可及的速やかな計画策定を促したのだという。石巻市が発表した『石巻の都市基盤整備に向けて』(市建設部)は、おそらくこの特命チームの原案を下敷きにして、「新エネルギーの活用」や「新交通システムの導入」など亀山市長の個人的提案(思いつき)を加味したものであろう。

被災市町村に対する県土木部の計画支援・指導体制は極めて系統的なものだ。『東日本大震災1年の記録(みやぎの住宅社会資本再生・復興の歩み)』(土木部、2012年3月刊)によると、第10章には「被災市町の復興まちづくり支援」の項目が設けられ、その取り組みは「被災市町では被災直後において、直面する震災関連業務に忙殺され、復興まちづくり計画を検討するための余裕がなかったことから、被災市町が主体となって策定する復興まちづくり計画の検討が効率的に進められるように、県では被災市町の立場に立ち、計画のたたき台を作成し提示した」と記されている。

県土木部と被災市町との間の連絡調整会議は、「第1回各市町ヒアリング」(4月11日〜21日)を皮切りにほぼ月1回のペースで開催され、石巻市が出席した1年間の回数は十数回にも及ぶ。主たる議題は、防災集団移転促進事業、被災市街地復興土地区画整理事業津波復興拠点整備事業など国土交通省の復興事業に関するもので、喉から手が出るほど国庫補助事業が欲しい被災市町にとっては絶対に欠席が許されない会議というべきだ。

東日本大震災1年の記録』には、また「宮城県土木部長からのメッセージ」も末尾に収録されている。これは2011年4月1日から翌年3月14日までの1年間・13回にわたる長文の土木部長のメッセージを掲載したものだが、村井知事の命を受けた県土木部の率直な意図が随所に出てくる。

「沿岸被災市町の復興の方向性については、中長期的視点に立った沿岸被災地域のグランドデザインを地域とともに再構築して、被災市町の復興計画の実現に向けた支援を行うこととしております。すでに8日には、気仙沼市南三陸町、女川町、東松島市名取市石巻市(特定行政庁)において、5月11日までの措置として、被災地の無秩序な開発を防ぐための建築制限を実施し、さらに期限機関を延長していただくよう法改正を国に要望しております。その間に、市町が被災市街地復興特別措置法に基づく被災市街地復興促進地域の指定をすれば、最長で2カ年建築制限をできることになります。その間に、土地区画整理事業計画や防災集団移転促進事業などの計画を策定して、復興まちづくりを実施していくことになります」(2011年4月14日)。

宮城県震災復興計画の復興のポイント「災害に強いまちづくり宮城モデルの構築」では、高台移転・職住分離・多重防御が3点セットになっております。(略)この3点セットは譲れない原則であります。今回の津波を再現し、レベル1(数十年か百数十年に1度の津波)による第1線の沿岸防御を踏まえ、安全な場所に住居を移っていただくことが何よりも重要であり、そのことを訴え続ける必要があります」(2011年8月1日)。

この土木部長メッセージは、阪神淡路大震災における神戸市の発想そのものだ(当時の神戸市長も土木出身の計画官僚だった)。震災を市街地整序のための「奇貨」(千載一遇の機会)として捉え、「無秩序な開発防止」を金科玉条にして被災地の建築制限や都市計画決定を正当化する。土木事業を「復興まちづくり」の根幹事業として絶対化し、あらゆる復興施策の上位に位置づけて予算を獲得する。そして、平常時には実現不可能な巨大プロジェクトを非常事態に名を借りて実施しようとする。全てが「創造的復興」という名の土木事業計画の具体化であり、「単なる復旧ではなく再構築」(選択と集中)という“ショックドクトリン計画”の実行に他ならない。

だが私が不思議に思うのは、「知事特命チーム」がなぜ土木部(だけ)にできたのかということだ。被災者の救済と生活再建が震災復興の第一義の目標なのであれば、特命チームは医療・福祉・教育・雇用・住宅などの部局から選抜されてもおかしくなかった。まして大川小学校のような悲劇が教育現場で発生しているのだから、何をさておいても災害をここまで拡大させた“人災”の原因を究明し、被災者が立ち直るための各種の生活対策を基礎自治体に対して最優先的かつ最大限に支援するのが県に与えられた使命であるはずだ。

関東大震災においてすら、政府は被災者の救済を最優先するため、当時の市街地建築物法(現在の建築基準法)を一定期間適用除外する「バラック勅令」(勅令は天皇命令)を発令して緊急事態の対応にあたった。バラック住宅の建築による「無秩序な開発」の広がりを防ぐよりも、被災地における家を失った被災者の雨露を防ぐ「バラック住宅」の建設容認を優先したのである。

本来であれば、宮城県は被災市街地に建築制限をかけるのではなく、「バラック勅令」に比すべき非常措置(暫定措置)を講じるべきであった。だが土木テクノクラートから構成される「特命チーム」は、疑うことなく被災沿岸部7市7町の「復興まちづくり計画(原案)」を1週間余りで作成し、「高台移転・職住分離・多重防御の3点セット」を“譲れない原則”にして被災市町の復興計画の指導にあたった。そして石巻市では、この「3点セット」の官僚的(機械的)適用が被災地復旧の最大の障害となり、被災地の無人化と荒廃化を持続させる最大の原因となったのである。(つづく)