震災の廃墟は観光資源にならない、「震災廃墟=震災遺産」ではない、平成大合併がもたらした石巻市の悲劇(番外編19)、震災1周年の東北地方を訪ねて(70)

今回は「来年3月までには全て取り壊しが決まっていますが、被災した旧雄勝総合支所・雄勝病院・公民館・雄勝小学校・雄勝中学校を震災遺産として残して、石巻市有形文化財に登録して、最終的には世界遺産までもっていけましたら、年間50万〜10万人世界各地から観光客が訪れる町として、旧雄勝町は観光都市としてホテルや商業施設が立ち並び、復活するのではないかと思います」という部外者氏のコメントについて考えよう。

この種の復興に関する提案は、各地でよく聞かれる。震災の廃墟を利用するのは“逆転の発想”ともいうべき提案であり、斬新なアイデアのようにも見えるが、私としては違和感が強くて「とてもついていけない」というのが率直なところだ。最大の理由は、被災地・被災者が自分たちの気持ちを逆なでするような提案を受け入れるはずがないと思うからだ。また、震災の記憶が冷めないうちは若干の観光客が「被災地ツアー」に来てくれるかもしれないが、時間が経過すれば激減することは目に見えている。

私が阪神・淡路大震災でボランティア活動をしていたとき、焼けただれた家の廃墟をバックに「Vサイン」をして写真を撮る若いカップルに出会った。そのときの居たたまれない気持はいまも消えることはない。同じ感情は、津波で大半の児童を失った北上地区の大川小学校を訪れたときにも味わった。このときは高齢者の集団だったが、周りの沈痛な空気などお構いなしに慰霊塔の前で賑やかに集合写真に収まっていた。観光とは、そういう側面を含んでいることを理解(覚悟)しておかなければならない。

だから、雄勝地区が震災の廃墟を観光資源にして復活し「観光都市としてホテルや商業施設が立ち並ぶ」有様は想像できないし、また想像したくもない。被災者の生活再建、被災地の復興はもっと地道なものであり、“日常性の復活”でよいのである。それがなぜ震災の廃墟を利用した「観光都市」でなければならないのか、そんな抵抗感を覚えるのはひとり私だけではあるまい。

しかし、部外者氏の本意はおそらく別のところにあるのだろう。それは「浜の人々をみていても、水産業に従事する人は後継者不足でいなくなり、遅かれ早かれ10年後〜20年後には高齢化・無住化で浜の消滅・滅亡は見えて来ています」という危機意識にもあらわれている。だから「もう一つは石巻市渡波までにトンネルを掘り20分程度で石巻市街へ行けるようにすることが不可欠です。誰もが陸の孤島雄勝は生活するにはいいところであるが、買い物に行くにも病院や学校へ行くにも不便だと言っています。高台移転・魅力ある町づくりが進まないと帰町者が「ゼロ」という事態も考えられます」という現実的提案に結び付いているのであろう。私はこの発想こそが「復興まちづくり」の基礎であり、雄勝地区の将来につながる素晴らしい着想だと思う。

とはいえ観光資源になるかどうかは別にして、「震災遺産」という問題提起が被災地復興にとって重要な指摘であることは間違いない。雄勝地区の公共建築群は有形文化財に登録できるほどの優れた建築群でもないし、ましてや「世界に比類ない卓越した文化遺産」である世界遺産に指定される可能性など万が一にもない。だから「震災遺産=有形文化財世界遺産」という道筋はほぼ絶望的だ。

しかし見方を変えてみれば、災害を歴史的教訓として受け止めるだけの深い洞察力と「二度と災害は起こさない」という固い決意があれば、震災の廃墟を震災遺産に変えることも可能なのではないか。たとえば、大川小学校の場合がそうだ。大川小学校は別の場所で再建される予定だというから、近く取り壊されるかもしれない。だが、私が『ねっとわーく京都』(2012年10月号)のコラム・「大川小学校の悲劇はなぜ起こったのか」で書いたように、悲劇の原因はまだいっこうに解明されていないままなのだ。

むしろ実態は、これまで石巻市教育委員会と市当局の手で隠蔽されてきた事実が、犠牲者遺族の血の滲むような努力によって一枚一枚そのヴェールが剥がされつつあるというのが現状であろう。第三者委員会が今後本格的な調査を始めればもっと驚くべき事実が明らかになるであろうし、そのような事実が解明されてときにこそ、大川小学校の校地・校舎ははじめて「大川小学校震災記念館=震災遺産」になり、「大川小学校の悲劇」は歴史的教訓として被災者のものになるのである。

雄勝地区の場合でいえば、私は雄勝町旧役場を「石巻市平成大合併・雄勝震災記念館」として保存することを提案したい。雄勝町旧役場は建築的価値からすれば「有形文化財」には程遠い建物には違いないが、雄勝地区が平成大合併で自治体機能を失うことによって震災復興まちづくりにおいて多大の困難に直面しているという点では、まさに平成大合併の“負の遺産”を象徴している建物だと言ってよい。

雄勝町役場および町民は石巻市への吸収合併に対してどのような態度をとったのか、合併によって住民生活は如何なる損害を蒙ったのか、大震災・大津波に直面した後、復興まちづくりはどのような変遷をたどったのか等々、記念館に展示すべき歴史的事実は山ほどある。そのためには地元住民が核になって「雄勝地区合併・震災検証委員会」(仮称)を結成し、石巻市に予算請求して合併記録の収集や復興計画の分析に早急に着手する必要がある。

「復興まちづくり」の本質は、観光計画でもなければ建築施設デザインでもない。それは住民自治を育て、地域力を高めるための社会運動・文化運動なのであり、「故郷を守り郷土を育てる」地域運動なのである。次回は、雄勝出身者氏の「さ迷える住民感情」を分析しよう。(つづく)