自助と共助にもとづく「震災ユートピア」と「震災ヒューマニズム」だけでは、被災地・被災者を取り巻く「リアリズムの世界」に迫れない、いまこそ本物の「復興まちづくり」が必要なのだ、平成大合併がもたらした石巻市の悲劇(番外編20)、震災1周年の東北地方を訪ねて(71)

雄勝出身者氏には、これまで私の日記に度々コメントを寄せていただきながら、何ら言及してこなかったことを最初にお詫びしなければならない。しかし今回は、雄勝地区住民の気持ちを率直にあらわすものとして受け取ることが出来た。いや、受け止めなければいけないと思ったのである。それは、石巻市雄勝支所などに対する私の批判が、心ならずも雄勝地区住民や被災者の方々に対する批判として跳ね返っていることに遅まきながら気付いたからだ。雄勝出身者氏は次のように言う。

「先生は雄勝地区の復興案は全国最悪とおっしゃっていますが、そう言い切られ発信されることについての住民に対する心配りはないのですか。行政側の批判やネガティブな部分ばかりを取り上げ、センセーショナルな言葉で延々と書き綴られる意味はいったいなんなのでしょう。単にいい題材(分かりやすい対立関係があるまち)を見つけて勝手なことをおっしゃっているとしか思えません。先生が批判されているアーキエイドと似たようなものだと思います。どういう計画になったとしても住む住民はいるのです、私の家族も戻って住む住民です(なにがあっても戻ると言っています)。先生がおっしゃる最悪の場所にです。批判だけでなく、先生がいい復興案にしてください。」

確かに、自分の住むまちを批判されて気持ちよく思う住民はいないだろう。だから、石巻市の復興計画を「全国最悪」と批判したのが気に障ったのであれば「他意はない」とお詫びするしかない。しかし一言反論するなら、私が石巻市雄勝地区を取り上げたのは、興味本位でもなければ「分かりやすい対立関係があるまち」だからでもない。本来、住民・被災者の「生活再建=公助」を第一義的に追及しなければならない自治体が、「震災復興計画」との名のもとに実質的には“土建国家のエージェント”としての役割しか果たしていない実態をどうしても批判しなければならないと思ったからだ。

震災復興に関する報道はとかく「ユートピア」と「ヒューマニズム」の世界に流れやすい。ユートピアヒューマニズムの世界は「自助・共助の世界」でもある。人々の絆や助け合いが強調され、小さな親切や思いやりが際立って大きく報道される。被災した人々の心を癒し、絶望を和らげ、荒んだ気持ちを慰めるうえで、ユートピアヒューマニズムの世界に浸るのは心地よいことだからだ。

東日本大震災においても例外ではない。なかでも石巻市は被害が大きかっただけにジャーナリズムやマスメディアの格好の舞台となり、数多くの「ユートピア物語」や「ヒューマニズム・ドキュメント」が石巻を題材にして製作された。たとえば、私が買い求めた類書のなかでも石巻市関係の出版物は頭抜けて多い。

池上正樹著、『東日本大震災石巻の人たちの50日間、ふたたび、ここから』(ポプラ社、2011年6月)
○中原一歩著、『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』(朝日新書、2011年10月)
○創風社編集部、『震災の石巻、そこから−市民たちの記録−』(創風社、2011年10月)
○皆川 治著、『被災、石巻五十日』(国書刊行会、2011年12月)
○高成田 享著、『さかな記者が見た大震災、石巻賛歌』(講談社、2012年1月)
○頓所直人著、『笑う、避難所−石巻・明友館、136人の記録』(集英社新書、2012年1月)

これらのなかには被災地・被災者の惨状をリアルに描いたものもあるが、なぜそのような事態が惹き起こされるかに関しては、国や自治体の復旧・復興政策との関連で掘り下げたものはほとんど見られない。多くはやはり自助と共助にもとづくユートピアヒューマニズムの世界に包まれ、そこではまるで石巻市が理想郷のように描かれている。だが、それは私が石巻市の現場で見聞きした「現実の世界」とは余りにも違う。そのギャップはいったい何に根差すのか、その背景に横たわるものは何か、そんな気持ちで始めたのが「石巻シリーズ」であり「雄勝シリーズ」だった。

私は都市計画・まちづくりの研究者である以上、どうしても“リアリズムの世界”すなわち客観的事実の検証やそれにもとづく科学的予測が判断のベースになる。阪神・淡路大震災のときも「創造的復興」という美しい言葉で彩られた復興計画の内実を批判し、「世紀の復興計画」だと喧伝された長田地区再開発計画がゴーストタウン化する運命を予測した。あれから十数年を経た現在、「世紀の復興計画」は多くのマスメディアによって「世紀の愚策」であったことが否応なく証明されつつある。

東日本大震災においても宮城県石巻市の復興政策や行政施策を時系列的に分析していくと、そこにはゼネコンや土木コンサル延いては建築家と称する人たちの「災害ビジネス」や「復興ビジネス」に翻弄される被災地の姿や、あるいはゼネコン行政を積極的に推進する自治体の姿が赤裸々に浮かび上がってくる。「津波対策の決め手」とされる高台移転計画がさしたる批判もないままに「土建ムラ」の大合唱のなかで実現に移されていくことなど、研究者としてはやはり見過ごすことができない。

醜い現実を描くのは誰もが好まない。美しい言葉で理想を語る方が見栄えもよく居心地がよいに決まっている。だが、自助と共助にもとづくユートピアヒューマニズムの世界はいつまでも続かない。震災後1年、1年半と時が経てば、被災地・被災者はいつしか厳しい現実に向かい合う日がやってくる。そのとき住民の依るべき情報や知識がリアリズムにもとづくものでなければ、「復興まちづくり」の方向は未来永劫にわたって見誤ることになる。

雄勝出身者氏は「どういう計画になったとしても住む住民はいるのです」「私の家族も戻って住む住民です」「なにがあっても戻ると言っています」と言われる。私はそこに、地域とともに生きていく住民のたくましいリアリズムを見る。とすれば、そこが「全国最悪」の場所となるか、それとも住み続けることができる場所になるかは、これからの住民の判断と行動にかかっている。「批判だけでない、いい復興案」をつくるのは部外者の私ではなく、そこに住む他はない住民なのだから。(おわり)