「震災1周年の東北地方を訪ねて」の連載を(とりあえず)終えるに当たって、私の研究作法と調査手法(その1)、震災1周年の東北地方を訪ねて(107)

 この連載の第1回を書き始めたのは、昨年(2012年)4月3日のことだった。当初は「印象記」程度のことを考えていたので、3カ月ぐらいで終えるつもりだったのが、だんだん「調査レポート」のような形になった所為か、100回を超える長期の連載になってしまった。

連載が長引いた最大の原因は、被災地があまりにも広くて災害の形態や様相が口では言い表せないほど複雑だったからだ。こんな巨大で複雑な構造を持った大災害を一介の研究者が分析できるなどとは元々から考えてもいなかったし、また到底不可能であることも知っていた。にもかかわらず、こんな「調査レポート」を書き続けたのは、被災者と復興計画とのギャップが余りにも大きく、復興のための政治や行政が必ずしも十全に機能してないと感じたからだ。

 とはいえ、個人ができることはしれている。そこで私の採った方法は、幾つかのテーマを設定して現地のフィールド調査と関連する文献資料調査を重ね合わせ、問題の構造を「スキャン」(走査)することだった。本来であれば「断面構造」の分析までいきたいところだが、それだけの条件は持ち合わせていないので、物事や現象の表面を「スキャン」することで内部構造を知ろうとしたのである。

 私がこれまで被災地を訪れたのは、2011年4月・8月、2012年3月・8月・11月の計5回である。1年目は主として三陸沿岸地域の被災地視察と被災者ヒアリング調査、2年目前半は被害が最も大きかった宮城県石巻市雄勝地区)の復興計画に関する現地調査、後半は福島県原発周辺地域の自治体調査だった。いずれも時間の制約と現地の事情があって、調査が断片的なものになってしまったのはやむを得なかった。

地元の研究者たちは、地域密着調査や定点調査、まちづくり参画調査など地元ならではのすぐれた組織的研究活動を日々展開している。それに比べて京都から東北へ個人で出かける私などは、その足元にすら及ばない。しかしそんな状況にあって私を助けてくれたのは、現地で地道な活動を続けているボランティアの人たち、なかでも地元の事情に精通している有志の方々の貴重な情報だった。

被災地の現場・現地に行くことはフィールド調査の鉄則だ。現場に行って自分の眼で確かめ、皮膚でその空気に触れなければ本当の姿はわからない。一見感覚的な方法のようだが、現地体験はそのときだけの成果だけでなく、あと後で関係資料を調べるときに必ず活きてくる。活字の裏にある現地の光景や空気を知らなければ、データの数字ひとつの解析すら難しいからだ。

そんなことで手探りの調査を始めたわけだが、私の若い頃と決定的に違うのは昨今の情報環境の恐るべき発展ぶりだろう。1960年代から始まった私の研究生活のほとんどは、公害問題調査にせよ都市計画・まちづくり調査にせよ全てがフィールド調査で埋め尽くされてきた。現地に行かなければ現場の様子がわからないのは当然だが、研究室に座っていただけでは現場の裏付けとなる資料そのものが手に入らなかったのである。

 だから役所への日参はもとより(その頃は行政資料コーナーもなかった)、それだけでは入手できない内部資料を得るために自治体の審議会や研究会メンバーになることも少なくなかった。そこで配布される資料は一般的に公開されていないものばかりだから、研究者にとっては喉から手が出るほど欲しい資料が多かったのである。 
だが、いまは違う。情報公開法のお蔭で余程の内部資料でない限り、政府・自治体を問わず関係資料が原則として公開されるようになった。しかも、それがインターネット検索で瞬時に入手できるようになったのである。なかでも審議会の議事録が公開され、最終的な結果だけでなく議論の経過がわかるようになったことは大きかった。復興政策や復興計画に関する方針や事業制度がどこからどのような背景の下で生み出されてくるかが、手に取るが如くわかるようになったのだ。

だから今回の連載に当たっては、現地調査の100倍も200倍も関係資料の検索に時間を費やした。若い頃には膨大な現場体験の積み重ねのなかから普遍的な現象や傾向を掴むという研究作法をモットーにしてきたのだが、それが体力的にも時間的にも許されなくなった現在では、膨大な資料の海から価値ある情報を現場体験にもとづいて抽出するという逆の方法に変わったのである。

加えて、私が幾つか参加しているメーリングリストからも日々膨大な生の情報が送られてくる。読むだけでも大変な情報量だが、それらのなかから珠玉のような貴重な情報を発見することも多い。そこでの情報源を芋づる式にたどっていくと、滅多に得られないような資料に行き当たることもある。かっては、文献索引の孫引きのために数日間は図書館に籠らなければならなかったのが、いまはその何十分の一かの時間でできるようになったのだ。(つづく)