震災復興計画の策定は「早ければ早いほどよい」とは限らない、復興計画は「復興統制計画」にもなり得るのだから、(震災1周年の東北地方を訪ねて、その6、地元紙「岩手日報」の記事から見えてくるもの(2))

前回の日記で、災害復旧復興計画の要諦は、被災者が合意し易い方策や解決策をいかに速やかに見出すかにあると書いた。しかし今回、なぜその趣旨に反するような見出しをつけたのかというと、岩手県下の被災市町村の復興計画が県の方針(基本的には国の方針)に基づき、「安全の確保」を第一義に追求しようとすることから、ともすれば被災者に「無理な決断」を迫るという“拙速主義”の恐れが多分に感じられるからだ。

岩手日報の報道によれば、被災12沿岸市町村の復興計画は、洋野町(2011年6月)、久慈市(7月)、普代村田野畑村・岩泉町(9月)、宮古市・大船渡市(10月)、野田村(11月)、山田町・大槌町釜石市陸前高田市(12月)の順で、全ての自治体の計画策定がすでに昨年内に完了している。

被災規模が小さかった自治体の計画策定であれば、比較的早く策定作業が進むことも考えられるが、人口の数%から10%にも及ぶ未曾有の犠牲者を出した大槌町陸前高田市・山田町までが僅か10か月足らずで計画策定を終えたのだから、どう考えても「驚異的なスピード」(異常な速さ)という他はない。きっと年内に復興計画を策定しなければ予算の申請が出来ないとか、予算がつかないとかの圧力が上からかかったためであろう。

復興庁の前身である東日本大震災復興対策本部は、『東日本大震災からの復興の基本方針』(2011年7月29 日)のなかで、「基本的な考え方」について次のように述べている。

東日本大震災からの復興を担う行政主体は、住民に最も身近で地域の特性を理解している市町村が基本となるものとする。国は、復興の基本方針を示しつつ市町村が能力を最大限発揮できるよう、現場の意向を踏まえ、財政、人材、ノウハウ等の面から必要な制度設計や支援を責任を持って実施するものとする。県は、被災地域の復興に当たって広域的な施策を実施するとともに、市町村の実態を踏まえ、市町村に関する連絡調整や市町村の行政機能の補完等の役割を担うものとする。」

 この基本方針を文字通り読めば、市町村こそが復興を担う行政主体であり、国はそれを支える責任を持ち、県は国と市町村あるいは市町村間の連絡調整など補完的役割を果たすということになる。復興計画も市町村主体で策定される以上、被害状況や被災者の声に応じて計画内容も策定期間も異なることは当然であり、このような画一的な形で進むことなどあり得ない。にもかかわらず、市町村の復興計画策定がかくも粛々と進行するのはなぜか。

 最大の理由は、復興庁が「使い勝手のよい交付金」を標榜し、「地方公共団体が自ら策定する復興プランの下、復興に必要な各種施策が展開できる使い勝手のよい自由度の高い交付金を創設する」(同上)と基本方針で表明しているにもかかわらず、それは単に「紙の上」のことで実現していないからだ。復興庁が各省庁の強固な縄張りと縦割り行政を崩せない結果、県や市町村は従前と同じく、関係省庁に予算化の陳情や折衝を繰り返さなければならないからである。

そうなると高台移転事業や多重防御施策など「安全の確保」に関する諸施策のほとんどが国土交通省所管である以上、現実には国の基準や申請手続きにしたがって県や市町村が事業計画をつくり、国交省の指示に基づいて復興計画をつくることになる。「住民に最も身近で地域の特性を理解している市町村」が復興計画をつくるのではなくて、実際には国が用意した復興事業メニューのなかから県が利用できる事業を選択し、それを市町村に提示して復興計画をつくらせるという順序で策定作業が進むのである。

しかし東日本大震災の復興計画策定においては、どこの市町村でも「住民参加の復興計画づくり」が強調された。これは、阪神淡路大震災において神戸市が震災発生後わずか2ヶ月足らずで復興都市計画決定を強行し、「創造的復興」を掲げる兵庫県知事も追認した苦い経験が「負の教訓」「反面教師」になっているからだ。当時、避難所で生活していた市民の間から大きな反対運動が起こり、都市計画審議会が開催された会場では被災者が「人間の鎖」をつくって計画決定に抗議したが、神戸市はそれらの人びとをゴボウ抜きにまでして計画決定を強行した。

そんなこともあって、国交省はそれ以降復興計画づくりに慎重になった。行政が計画決定を強行しても、その結果は却って復興の障害になることを学んだからだ。事実、被災者や住民の反対を押し切って強行決定された復興計画の多くは、その後失敗に終わっている。「住民参加の復興計画づくり」が謳われるようになったのはそのためだ。

問題は「住民参加」の方法だろう。たとえば復興計画を「年内」につくらなければならないとすると、出来ることはごく限られることになる。形式的な被災者意向調査や懇談会を実施するのがやっとだろう。そして「住民参加」が復興計画策定のひとつのマニュアルとなり、形式的な手続きに形骸化すれば、復興計画は当局が主導する「復興統制計画」に転化することはたやすいといわなければならない。

それでも、被災市町村では幾つかの「住民参加」が試みられた。高台移転など復興事業が一番進んでいるといわれている山田町を例にとれば、「山田町の復興に関するアンケート調査」と「住民懇談会」がそれに当たるだろう。アンケート調査(裏表2頁、14問)は、震災後2ヶ月半経った5月27日から6月10日まで山田町の全世帯を対象に(世帯主に回答を依頼)行われ、配布数は6888世帯、回収数は3161世帯、回収率45.9%だった。配布方法は、広報に添付するか、避難所で手渡しするというもの。回収方法は、避難所の回収箱へ投函もしくは区長への提出となっている。また住民懇談会は5月27日から31日まで町内15会場、町外4会場で行われ、参加者合計は1069人だった。1世帯1人の参加だと仮定すると参加率は15.5%になる。

被災直後の混乱期にアンケート調査や住民懇談会を実施し、調査結果をまとめた町役場の努力は大変なものだったと想像できる。その内容は次回に分析するとしても、私が懸念することは、アンケート調査と住民懇談会だけで「住民参加の復興計画づくり」といえるのかどうかということだ。いうまでもなく復興計画の策定は、今後何世代にもわたって被災自治体の運命を託す重大な行為である以上、住民参加は多様な形でしかも継続的に行われる必要がある。人の一生を左右する「居住地の選択」(高台移転も含めて)を、被災直後の混乱期の1枚のアンケート調査で判断できるかは大いに疑問という他はない。

でもそれが「被災者の意向」であり、「住民参加の結果」として一人歩きするようになると、いつの間にか復興計画を正当化する行政資料として権威づけられるようになる。これは本質的にみれば、神戸市の復興都市計画の強行決定と変わらない。(つづく)