再録『ねっとわーく京都』2012年8月号、“日本版ショックドクトリン計画”が生まれた背景〜東日本大震災1周年の東北3県を訪ねて(その3)、宮城県の場合〜(広原盛明の聞知見考、第19回)

これぞ、地球大の災害便乗型復興計画
 村井知事(防衛大学校卒、松下政経塾出身)が主導する宮城県震災復興計画は何から何まで異色ずくめだ。「この知事にして、この計画あり」というところだろうが、それにしてもこれほど赤裸々な「災害便乗型復興計画」(ショックドクトリン計画)にはお目にかかったことがない。計画策定の目的、主体、手法など、すべてがこれまでの復興計画の枠からはみ出している。
私が宮城県のことをはじめてブログに書いたのは昨年5月。タイトルは「創造的復興という名の“道州制導入実験”に突っ走る宮城県震災復興計画」(13日)、「“戒厳令”といったキナ臭さが漂う宮城県震災復興計画」(17日)というもので、現地で読んだ河北新報の記事がきっかけだった。当時はまだ、ナオミ・クラインの邦訳、『ショックドクトリン〜惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(岩波書店)が出版されていなかった。私がそれまで使っていたのは「奇貨の復興計画」という表現だったが、その意味は「ショックドクトリン計画」と同じことだ。
村井知事の行動は被災3県のなかでも群を抜いている。「地球規模で考え、日本の発展も視野に入れた計画を作る」、「単なる復旧にとどまらず抜本的な再構築を図る」、「震災による逆境を先進的なまちづくりに転換する」、これが彼の一貫して強調してきた復興コンセプト(基本理念)だ。国の復興構想会議においても、(1)恒久的で全国民、全地域が対象となる災害対策のための間接税(災害対策税)の創設、(2)津波危険地域の公有地化・共有地化、(3)広域的・一体的な復興を進めるための「大震災復興広域機構」の設立、(4)思い切った規制緩和、予算や税制面の優遇措置を盛り込んだ「東日本復興特区」の創設、(5)沿岸漁業への民間企業の参入を促す「水産業復興特区」の創設など、まるで“国策のオンパレード”ともいうべき主張を繰り返してきた。

東京メンバーに限定
自治体震災復興計画の性格は、(1)被災状況の内容や規模・程度、(2)住民運動など世論の動向、(3)首長の政治姿勢と議会の勢力分布、(4)事務局を構成する官僚機構の体質、(5)計画策定メンバーの構成によって決まる、と前回書いた。宮城県復興計画の際立った特徴は、何よりも(3)(4)(5)の要素が突出していることであり、なかでも最も強い印象(衝撃)を受けたのが県の震災復興会議委員12名の顔ぶれだった。メンバーは三菱総研、日本総研野村総研日本政策投資銀行など金融資本系シンクタンクの幹部と政府審議会の常連学者(東京在住)によって独占され、地元委員は僅かに東北大学旧帝国大学)の2名のみ、県内被災市町村の首長は誰一人入っていないのだ。
村井知事自身は、被災県知事の一人として国の復興構想会議で発言する場を与えられた。ところが足元の県震災復興会議には被災市町村の首長を誰一人参加させず、全てを「東京メンバー」に丸投げしている。この余りにも露骨で救い難い矛盾を彼は県民に対してどのように説明するのか。「地元ではかねがね被災市町村首長の話は聞いている」というのがその言い分(言い訳)だそうだが、被災県の知事が参加しない国の復興構想会議が成立しないように、被災市町村の首長が参加しない県の震災復興会議などそもそもあり得ないのだ。
だが、本当の理由は別のところにある。県の震災復興会議に被災市町村の首長を入れると、被災者と被災地をどう救うか、その生活をどう再生させるかという本来の議論が中心になり、「地球大の災害便乗型復興計画」の話などできなくなる。だから、会議を取り仕切った野村総研など財界系シンクタンクによって、被災市町村の首長たちは県の震災復興会議から排除されたのである。

野村総研が全面支援
野村総研(NRI)は野村証券を母体とするわが国最初の民間シンクタンクで、現在は資本金186億円、年間売上高3千数百億円、従業員数6千数百人を擁する巨大な財界系シンクタンクだ。NRIの「ニュース・リリース」によれば、同研究所は東日本大震災発生から僅か4日後の3月15日、社長直轄で「震災復興支援プロジェクト」(プロジェクトリーダー山田澤明)を発足させ、「震災復興に向けた緊急対策の推進について」の各種提言を3月30日から5月19日までの間に11回も連続して発表するという恐るべき機動力を見せつけた。
注目すべきは、震災発生約1カ月後の4月14日、「野村総合研究所宮城県の復興計画策定を全面的に支援」との声明が出されたことだ。野村総研がなぜ宮城県の復興計画を全面支援するのか。その経緯や狙いはなにか。この声明には、その後の宮城県の復興計画の展開を理解する上できわめて重要な内容が含まれている。少し長くなるが紹介しよう。
「株式会社野村総合研究所(NRI)は、宮城県の震災復興計画の策定に全面的に支援することで宮城県と合意しました。東北地方太平洋大地震で甚大な被害を受けた宮城県では、復興に向けて今後10年間の主要な取り組みや事業の実現に向けたロードマップを示す「震災復興計画(仮称)」を進めています。NRIはこれまで、宮城県知事の政策アドバイザーや宮城県及び東北地方に関連する様々な調査研究プロジェクト業務等を通じて宮城県と深い関わりをもっていました。その経験を生かして、NRIの「震災復興プロジェクト」の一環としてこの度の「震災復興計画(仮称)」の策定を全面的に支援することに致しました」
「当該地域の復興にあたっては、単なる「復旧」ではなく、今後生じる様々な課題に対応した先進的な地域づくりに向けた「再構築」が求められています。現地の実態をしっかりと踏まえたうえで、NRIが保有する防災、地域開発、産業開発に関するノウハウを総動員することにより、今後の宮城県さらには東北や全国の発展に資する住民志向、未来志向の計画づくりに、宮城県と一体になって取り組んでいく所存です」

宮城県素案とNRI声明の相似関係
宮城県復興基本方針素案(4月11日公表)とNRI声明(4月14日)は、内容的にも発表時期の上でも互いに双子のような相似関係にある。おそらく宮城県素案もNRI声明も同一文書をもとに(あるいは同一人物の手によって)書かれたものではないかと推測される。両者に共通するのは「復興計画を契機とする地域再編=道州制の導入」という構造改革視点であり、それが「東北や全国の発展に資する未来志向の計画づくり」、「単なる「復旧」ではなく「再構築」」、「現代社会の課題に対応した先進的な地域づくり」などの復興コンセプト(基本理念)として掲げられているのである。
同時に注目されるのは、内容上の重なりだけではなく発表時期も重大な意味を持っていることだ。両者が発表された時期と国の動きを重ねてみると、4月11日は東日本大震災復興構想会議の開催が閣議決定され、同時に村井知事を含めた構想会議委員15名の名簿が公表された日であり、4月14日は第1回の復興構想会議が首相官邸で開催された日だ。野村総研は国の復興構想会議に関する動向を逐一キャッチしたうえで、宮城県と一体になって震災復興計画の策定に乗り出していたのである。
さらに宮城県素案とNRI声明の「単なる復旧ではなく、未来に向けた創造的復興(再構築)」との復興コンセプトが、復興構想会議の設置を決定した閣議決定文書のなかに見出されることも興味深い。このように国の復興構想会議の基本路線と宮城県素案・NRI声明はいわばスタート地点から同一線上に並んでおり、村井知事は復興構想会議全体の議論を推進する「コマ」としての役割を担わせられることになった。宮城県復興計画が県単位の計画にとどまらず、道州制の導入を睨んだ「東北復興モデル計画」の性格を帯びているのはこのためである。

道州制実験場としての東北地方
野村総研宮城県知事の政策アドバイザーになり、宮城県及び東北地方に関連する様々な調査研究プロジェクトに参加するなど宮城県と深い関わりをもってきたのは、開発計画への協力を通して東北地方に道州制を具体化する手がかりを掴むためだったといえる。2000年代はじめの東北地方においては、岩手県の増田知事、宮城県の浅野知事、秋田県の寺田知事など「改革派知事」による東北地方分権論が盛んであり、全国的に見ても東北地方が道州制実現に一番近い地域だと思われていたからだ。
道州制の導入は、日本経団連が「究極の構造改革」と位置づけるように、国の統治機構地方自治制度)を簡略化して行政コストの軽減を図り、国土を効率的に再編して投資効率を高めるための国家的戦略課題だ。財界が国と国土の再編成政策(リストラ)を実行しようとするとき、道州制とセットになった新たな国土計画が打ち出されるのはこのためである。道州制は、財界のいう「新しい日本の姿」の中身であり、国土計画はそれを盛り付ける器なのだ。
経団連が1990年代半ばに開発主義政策から構造改革政策へ戦略転換したとき、『新しい全国総合開発計画に関する提言−新たな創造のシステムによる国土・地域づくりを目指して−』(経団連、1996年7月)が発表された。そこには、今後の国土計画の基本方向が従来の「国土の均衡ある発展」から、地域の「個性化と自立化」さらには「地域間競争」へ抜本的に転換されなければならないことが強調されていた。そして今回の東日本大震災は、「国民のピンチ」を「財界のチャンス」にするために、東北地方をふたたび「道州制の実験場」として浮かび上がらせる一大契機になったのである。

「国土の均衡ある発展」から「選択と集中」へ
4全総までの国土開発計画の一貫した理念(建前)は、地域間格差の是正による「国土の均衡ある発展」であった。国土開発計画は国土の生産力の発展を主目標としながらも、他方では少なくとも地域格差の解消など地域間の平等実現を目標に掲げていた。1全総(1962年)の工業分散による「地域間の均衡ある発展」、新全総(1969年)の産業拠点開発とネットワーク化、3全総(1977年)の「人間居住の総合的環境の整備」、4全総(1987年)の「多極分散型国土の構築」などがそれである。
だが5全総(1998年)では、経団連の批判と提言を受けてこれまでの計画理念である「国土の均衡ある発展」は放棄され、新自由主義的な「地域の選択と責任にもとづく地域づくり」に代わった。国土計画の目標と役割が、自民党政府(土建族)と中央官僚の合作による地域分散型の公共投資配分計画から、市場原理に基づく財界・多国籍企業主導の地域再編計画すなわち地域投資の「選択と集中」へ大きく舵が切られることになったのだ。
国土計画の新自由主義的改革の行き着く先は、国土総合開発法(1950年)の改正にもとづく国土形成計画法(2005年)の制定だった。そして国土形成計画法の下で「多様な広域ブロックが自立的に発展する国土を構築するとともに、美しく暮らしやすい国土の形成を図る」とする新しい国土計画(全国計画、2008年)が策定された。国土総合開発法から国土形成計画法への移行は、以下の3点に要約される。
(1)国土計画の目標と役割が「公共投資による地域開発=国土の均衡ある発展」から「市場原理にもとづく地域投資の選択と集中=国土の効率的再編と経営マネージメント」に変わった。
(2)国土計画の体系が「都道府県を基礎とする全国計画」から「全国計画と(道州制と広域市町村合併を推進するための)広域地方計画」の2本立てとなった。
(3)国土計画の参加主体が「国家主導=官主導」から「「新たな公」の担い手=多様な民間資本・団体の参加」へ拡大された。

財界による、財界のための、財界の地方計画
国の復興構想会議には、日本経団連経済同友会日本商工会議所など主な経済団体代表が第3回会議(2011年4月30日)に招致され、それぞれの公式見解を発表している。なかでも経済同友会の『東日本大震災からの復興についての考え方』は、東日本大震災に乗じて「究極の構造改革道州制」を実現しようとする財界の「ショックドクトリン計画」の意図が率直に表明されていて非常に分かりやすい。その基本的な考え方は以下の3点である。
(1)東北を「新しい日本創生」の先進モデルに:「復興」は震災前の状況に「復旧」させることではない。被害を受けた東日本とりわけ「東北」の復興を、高齢化やグローバル化といったわが国がかねて直面する課題を解決する先進モデルとして、国際競争力ある国内外に誇れる広域経済圏の創生をめざす。
(2)道州制の先行モデルをめざし、東北地域全体を総合的に考える視点を: 復興に際しては既存の制度や常識にとらわれることなく、従来の各県単位での地域振興策とは全く異なる発想が求められる。すなわち道州制の先行モデルをめざし、東北という地域が主体となって地域としての全体最適を図るものとする。
(3)財政健全化の道筋の上に立った復興計画を:震災以前からわが国が厳しい財政状況に直面していることに鑑み、復興計画は財政健全化の道筋の中に描かなければならない。したがって、税制・社会保障の一体改革や成長戦略などの諸改革も復興計画と整合性のとれた形で遅滞なく実行する。

 なぜ、財界はかくも道州制の導入に固執し、大災害に乗じて日本の地方自治制度・統治構造を根本から変えようとするのか。それは、新しい国土形成計画の原理である「選択と集中」を実現するには、「国土の均衡ある発展」を担う各県単位の地域振興計画が障害(邪魔)になるからであり、思い切った国土のリストラ計画を実行できないためだ。岩手県のように被災した小漁港をそのまま復旧するなどというのは論外であり、宮城県のように「選択と集中」の原理で小漁港を1/3〜1/5に再編淘汰しなければならないからだ。要するに、「東北という地域=東北州」が主体となって、地域としての「全体最適=集積拠点の形成=条件不利地域の切り捨て」を断行するのが、東北を「新しい日本創生の先進モデル」にするための最適解なのであり、国際競争力ある国内外に誇れる「広域経済圏の創生」をめざす道なのである。
こうした経緯から宮城県復興計画の性格をワンフレーズで言いあらわすとすれば、それは「財界による、財界のための、財界の地方計画」ということになるだろう。より具体的には「財界による=野村総研による計画策定支援」、「財界のための=東北州実現のための」、「財界の地方計画=選択と集中を原理とする地方再編計画」と言うことができる。

東北圏広域地方計画と宮城県復興計画をむすぶ固い絆
国土形成計画法に基づく広域地方計画が、東北地方をはじめ道州制を想定した国内広域8ブロックで2009年中に全て策定された。この中で注目すべき事実は、各ブロックに設置される広域計画組織の最高責任者に電力会社の元社長・会長が数多く就任していることだろう。東北圏広域地方計画は東北電力、北陸圏は北陸電力、近畿圏は関西電力、四国圏は四国電力、九州圏は九州電力というように、8ブロックのうち5ブロックの計画責任者が電力会社の最高幹部で占められている。つまり広域地方計画は電力会社の支配圏にもとづいて策定されているのであり、このことは道州制の実現が電力会社の経営戦略に合致していることを示している。
同時に興味深いことは、広域ブロックの産業・都市の成長政策を検討する政府国土審議会の「広域自立・成長委員会」委員長に寺島実郎氏(日本総研理事長)が就任していることだ。寺島氏は宮城県震災復興会議の副議長として辣腕をふるい、「国の大きな復興計画に関する議論より(宮城では)挑戦すべきテーマがクリアに出ているので、宮城の計画が震災復旧のモデルになるのではないかと期待している」(河北新報、2011年5月11日)と述べている。このことは、彼が宮城県の震災復興計画を「東北圏広域地方計画」の突破口(実験場)に位置づけていることを示している。
すでに策定されている東北圏広域地方計画の主なポイントは、(1)基幹産業である農業・水産業の収益力の向上、(2)次世代自動車関連産業集積拠点の形成、滞在型観光圏の創出、(3)リサイクル産業集積等を活かした循環型社会づくりの3点が挙げられている。村井知事が震災復興計画として実現しようとしている「農地の集約による大規模農業の創出」や「漁港の集約と漁業権の民間企業への開放」などのプロジェクトは、この東北圏広域地方計画の具体化に他ならず、東北圏広域地方計画と宮城県復興計画はかたい絆で結ばれているのである。

日本版ショックドクトリン計画は成功するか
 それでは野村総研がシナリオを書き、村井知事がスタンドプレイヤーとして起用された「日本版ショックドクトリン計画」は成功するだろうか。結論的に言えば、村井知事の(孤軍)奮闘にもかかわらず宮城県復興計画は思うような成果を上げるに至っていない。ひとつは隣接する被災県の佐藤福島県知事や達増岩手県知事の批判によって、もうひとつは宮城県漁協をはじめとする地元県民の強力な反対運動によってである。
 復興構想会議の議事録を読むと、村井知事の提案した「災害対策税=震災復興税」の創設、「大震災復興広域機構=東北州モデル機構」の設立に関する提言は、前者は達増知事の反対によって、後者は佐藤知事の反対によって議論の対象から外された。佐藤知事は第5回会議(5月14日)において、次のような見解を明らかにして「道州制への懸念」を表明している。
 「被災者は、生まれ育った自分のふるさとに一日も早く帰りたいと望んでいる。現在も全国に避難している3万5千人を超える県民は、1日も早く「福島」に帰りたいと望んでいる。こうした被災者の願いを実現するため、それぞれの地域の実情に合わせた復興に取り組んでいるさなかに、道州制を視野に復興を進めるという意見には賛成できない。なお道州制に関しては、道州内の新たな一極集中、住民自治の確保の難しさ、さらには地域の多様性・アイデンティティの喪失などの懸念があるため、かねてから慎重な対応が必要であると主張してきたところである」
 村井知事はこれまでことあるごとに「被災3県の協調」を強調し、それを担保するための広域的復興機構の設立を提唱してきた。しかし言葉こそ美しいが、それは被災者や被災地の救済は生活再建をめぐっての協調ではなく、彼が言うのは「被災3県の協調=東北州の実現をめざす司令塔の構築」であり、「州都=仙台」を擁した宮城県主導の東北地方再編成計画のことなのである。こんな露骨な提案が福島県岩手県はもとより、東北各県からもまともに相手されるはずがない。
だからその後においても、村井知事の提案は東北各県の知事から相変わらずそっぽ向かれている。「周回遅れ/道州制を警戒、二の足踏む」と題する最近の河北新報特集記事(2012年6月7日)は、この4月に発足した「道州制推進知事・指定都市市長連合」に東北から参加したのは村井知事たった一人であり、「東北の他県知事にしてみれば、宮城県道州制をリードし、地域間格差が拡大することなどを懸念。村井知事は「道州制抜きにまず手をつなごう」と広域連携を呼び掛けるが、その先に道州制が透けて見えるのか、他県は二の足を踏む状態が続く」と伝えている。これからも「日本版ショックドクトリン計画」への道は険しい。

●補注:宮城県復興計画の策定メンバーとなった「東京人」たちは、その後復興計画についてあまり語らなくなった。