再録『ねっとわーく京都』2012年11月号、福島原発周辺地域はこれからどうなる〜東日本大震災1周年の東北3県を訪ねて(その6)〜(広原盛明の聞知見考、第22回)

震災1周年から半年
 「東日本大震災1周年」の連載を始めてからもう半年経った。震災発生から1年後の東北3県の実情を少しでも知らせたいと思って始めたが、それがいつの間にか1年半後の実情になってしまったというわけだ。それも岩手県宮城県のシリーズをやっと終えただけで、福島県にはまだ手も着けていない。それほど東日本大震災の災厄は深刻であり、複雑なのである。
連載から半年間の空白を埋めるべく、8月末に1週間をかけて4度目の現地調査に入った。前回の3月末調査では原発周辺地域に入れず、いわば「外から見たフクシマ」しか書けなかったので、今回は少しでも「内から見たフクシマ」に近づきたいと思ったのである。そこで地元のNPО関係者に同行してもらって、福島県では南相馬市飯舘村(正確に言えば、福島市飯野町に移転している飯舘村役場)を中心に回ることにした。
また仙台市内で開かれたパネルディスカッション『原発事故でまちと暮らしに何が起きているのか』では、福島大学教員の方々から浪江町の担当主幹を紹介してもらって資料収集の手はずも整えた。だが、南相馬市飯舘村役場のヒアリング調査だけでは「内から見たフクシマ」に近づくことは難しかった。原発周辺地域ではいまなお多くの自治体が「立ち入り禁止」であり、自分の目と耳と肌で地元の多様な実態を直接感じ取ることができなかったからである。
それでもやはり「行ってよかった!」と思う。新聞やテレビを通して多少の知識があったとしても、それが「どれほど大変なものか」はやはり現地に行ってみないとわからない。そこに住んでいる人や働いている人の生活実感を通してしかわからないことがあまりも多すぎるのだ。そして今回の調査で私が得た最大の収穫は、「除染がフクシマの復興と将来を決める」という原発災害に直面する福島の厳しい現実だった。

福島とフクシマ
敏感な読者の方なら、私が本稿で「福島」と「フクシマ」という2つの言葉を使い分けていることにすでに気付いておられるかもしれない。福島原発災害に関する本は優に百冊を超えるが、そのなかでも「フクシマ」を意識的に使っている著者もいればそうでない人もいる。それぞれの人の意図を解説するのが本稿の主旨ではないので、ここでは私なりの意図だけを説明したい。
一言でいえば、「福島」は地理的・空間的な概念だといえる。福島県福島市地方自治体としての明確な管轄区域(団体自治権を行使する行政区域)を有し、当該地域を統括する権限を持った議会と当局(首長と行政部局)が存在している。またそこには、住民自治の主体である県民・市民が生活をしている。原発災害から地域社会が立ち直るうえで、地方自治の主体である「福島」は最大かつ最前線の役割を担っており、福島県知事と県議会、県内市町村長と議会が果たすべき責任は計り知れないほど重い。
このことを象徴するような出来事があった。菅前首相が任命した「東日本大震災復興構想会議」(議長、五百旗頭防衛大学校長)において、かねがね道州制を画策してきた財界代表(経団連経済同友会など)が東日本大震災を契機に「東北州」の導入を強力に主張し、村井宮城県知事(元自衛隊員、松下政経塾出身)がトロイの木馬の役割を演じた。しかし、佐藤福島県知事がそれでは原発災害に取り組む地方自治体の責任と役割が曖昧になるとして道州制反対の論陣を張り、ショックドクトリン的画策は成功しなかった。
もうひとつの「フクシマ」は、福島原発事故による放射能環境汚染や内部被曝およびそれに伴う風評被害など、福島発の地球規模でかつ長期にわたる原発災害・原子力災害を総称する社会的概念である。東京電力経済産業省などの「原子力ムラ」は、原発災害の影響を可能な限り小さく見せかけようとして「福島」に限定した施策・補償を重点的に進めている。しかし原発災害はいうまでもなく「福島」に限定されないのであって、地球大の現象である「フクシマ」としてすでに世界中に拡散している。「フクシマ」でなければ、福島原発事故を契機とする各国の反核運動の展開や日本の首相官邸前の「原発ゼロ」デモの広がりも理解できないし、ドイツをはじめとするヨーロッパ諸国の原発廃止政策への転換も理解できないのである。

除染が福島の死命を制する
福島の復興のあり方を考えるうえでの最大のポイントは、放射能の除染が今後どれほどの規模と速度で進むかということだろう。これは岩手や宮城の場合とは決定的に異なる点であり、「東北3県の復興問題」といった括り方では到底把握できない深刻な問題だ。福島においても地震津波による被害は決して小さくはないが、たとえそれが岩手や宮城と同じような破壊現象に見えたとしても、“復旧・復興”という視点から見れば全く異なった性格の災害であることを認識しなければならない。
第1に、原発周辺の放射能汚染地域(40キロ以上も離れた飯舘村も含めて)では人も車も立ち入りが規制されているので、直ちに除染に着手できないという困難さがある。そして除染のスタートが遅れれば遅れるほど地域は荒廃の度を増し、文字通り「ゴーストタウン」と化していく。このように福島では復旧・復興の前に除染が大きく立ちはだかっているのであって、放射能をまず一定レベル以下に低減しなければ復旧・復興作業は着手できないのである。
第2に、除染が始まっても放射能ガレキの置き場や中間処理場の整備が進まなければ作業を続行できない。自分たちには何の咎もない。放射能をまき散らした東電こそが放射能ガレキの処理に対しては全面的な責任を負うべきだ。なぜ自分たちがガレキ置き場や処理場の建設に苦労しなければならないのか。こんな怨念にも近い「原子力ムラ」への不信感が多くの被災者の意識のなかに蓄積されている。だから、ガレキの仮置き場ひとつですら住民間の合意形成が難しく、除染に着手することは容易でない。
第3に、除染は原発解体作業と同じく作業従事者の内部被曝管理を徹底しなければならず、人海戦術で一挙に作業を進めるわけにはいかない。だから一定の人数を確保しながらローテーションを組んで計画的に作業を進めなければならないにもかかわらず、「究極の3K仕事」といわれる除染・解体作業にはなかなか人が集まらない。特に最近のように岩手・宮城で各種の建設作業が盛んになってくると、そちらの方に手を取られて福島の除染が一向に進まないという状況が出てきている。

原発周辺自治体は果たして帰還できるか
日本の災害史上、役場も含めて全村が避難を余儀なくされた最近の事例としては、2000年の三宅島噴火によって全島民が島外へ避難した東京都三宅村のケースがある。2005年に避難指示が解除されてから島への帰還が徐々に始まったが、この間の4年半に及ぶ避難生活によっておよそ3割の島民が島外に流出した。しかし2012年現在約7割の島民が帰島しており、この帰還率は決して低くない。避難原因が周期性のある火山噴火だったこと、避難生活が4年半と比較的短かったこと、東京都の手厚い支援措置があったことなどが7割という高率の帰還につながったのである。
それにくらべて、今回の原発周辺地域では全域を避難区域に指定された自治体は当初6町3村に達し、うち広野町川内村は今年4月にとりあえず役場だけは帰還したが、残りの浪江町双葉町大熊町富岡町楢葉町飯舘村葛尾村の5町2村は、果たして帰還できるかどうかの目途さえ立っていない。また広野町川内村でも住民がなかなか戻らない(戻れない)状況が続いていて、とても本格的な復帰と言える状態ではない。これらの事態は、避難を余議されている自治体の数の多さといい、避難原因が原発災害であることといい、日本の災害史上未曽有の出来事だというべきであろう。
さらに深刻なのは、最近になって浪江町双葉町大熊町富岡町の全域と南相馬市飯舘村の一部が政府の避難区域再編方針によって「帰還困難区域」(5年後も放射能レベルが年間20ミリシーベルト以下にならない区域)に再編されたことだ。そうなると、被災者が故郷に帰れるのかどうかの見通しがますます不透明になり、たとえ5年待ったとしても帰還できるかどうかも怪しくなる。住民が帰還する可能性がますます遠のくとすれば、地元に戻って生活再建するという見通しも薄れて行かざるを得ない。
そんなこともあって、最近幾つかの町で「仮の町」構想が提起されている。役場が避難している自治体や他地域のある一画を「仮の町」に指定し、そこに公共施設や復興住宅を集中的に建設するという構想だ。避難していても元のコミュニティを維持して「仮の町」に住み続け、放射能レベルが下がれば故郷に戻るとの長期作戦である。
全町村規模ではないが災害を契機にして他地域に移った例は、奈良県十津川村の明治大水害(1889年)にともなう北海道への移住がある。600戸2500人の村民が分村して石狩平野に「新十津川村」(現十津川町)を開村したケースだ。しかし、この場合は一種の開拓村の建設であって「仮の村」ではない。「仮の町」構想はこれまで経験したことない復興計画であり、それがどれだけの現実性を持った計画なのか、当局も住民も戸惑っているのが率直なところだろう。

帰れないも地獄、帰るも地獄
今回訪れた飯舘村役場の話によると、除染や復旧・復興作業の拠点となるべき役場が他地域への避難を余儀なくされている事態は予想以上に厳しいものがある。飯舘村役場は福島市郊外の飯野町支所に間借りしているのだが、住民は福島市の他、伊達市、川俣町の3市町に分散していて役場と住民との間の連絡ひとつが以前のようにはいかない。またかってはひとつの地域にまとまって住んでいた住民がバラバラになっているので、互いの連絡もままならず周囲から孤立するケースが後を絶たない。
それにくわえて、住民の多くは高齢者なので避難先での環境の急変についていけない高齢者世帯が続出している。3世代家族だったのが仮設住宅や民間借り上げ住宅の狭さから世帯分離を余儀なくされ、高齢者だけの世帯が急増しているのである。高齢者にとっては子どもや孫と一緒に暮らせない孤独感は想像以上に辛いものがあり、またこれまで日課となっていた田畑の仕事ができなくなったこともあって、認知症の発症率が次第に高くなってきているらしい。そしてなによりも「いつ帰れるかわからない」という先行きを見通しできない状況が、残された時間がそれほど多くない高齢者を絶望の淵に追いやっているのである。
それでは住民の帰還が一時的にせよ実現した地域の現状はどうだろうか。この4月に「警戒区域」が「避難指示解除準備区域」(放射能レベルが年間20ミリシーベルト以下、一時帰宅可、宿泊禁止、除染によって早期に住めるようにする区域)に変更されて帰還可能になった南相馬市小高区では、立ち入り禁止が解除されて被災者が一応出入りできるようになった。
だが、そこに広がっていた光景は無残にも1年前の震災発生時の惨状と何ひとつ変わっていなかった。家は壊れたまま、漁船は岸壁から遠く離れた農地のなかに転がったまま、牧舎の周辺には家畜の死骸(骨)が散乱したまま、上下水道・電気・道路などインフラ施設、学校・病院などの公共施設や商店なども残骸を曝したままだったのである。
全てがまるで1年前に“タイムスリップ”したような光景を目前にして、人々は長く無言のまま立ち尽くしていたという。しかし1年余りの時の流れは否定すべくもなく、周辺一帯は「ゴーストタウン」そのものと化していた。雑草が生い茂った庭先や傾いた我が家を前にして、人々は改めて絶望と向かい合うこととなったのである。家に帰っても放射能レベルが高いこともあって庭の手入れや家の整理をする人は少なく、「せめてもお墓だけもきれいにしよう」というのが人々の共通の気持ちだったという。除染なしには長くとどまることさえ躊躇われるような環境のなかで、人々はこれまでの「帰れない地獄」から「帰るも地獄」の現実に直面することになったのである。
しかし、南相馬市では除染の困難さを別の意味でも嫌というほど思い知らされた。それはひとつの自治体だけでも百億円単位の巨額の予算が支出されているにもかかわらず、ほとんどが国庫負担なので地元市役所(担当職員)の関心がそれほど高くないのである。しかも“ゼネコン丸投げ”で除染作業が行われているので、自治体も住民も除染の実態を正確に把握しているとは必ずしも言い切れない。また情報公開もきわめて不十分だ。これでは本当にキチンと除染されているかどうかさえ疑わしい。
NPОをつくって民間で除染活動をしている人たちのなかには、ゼネコンはガレキ処理で儲け、除染で儲け、公共工事で儲けるという“三重取り“だと言う人がいた。このような指摘が本当かどうかはこれから追及しなければならないが、噂にせよこのような批判があること自体、福島の復興が幾重もの困難に遭遇していることを示すものだろう。

東日本大震災のコアは原発災害にある
これほどの除染の困難さからすれば、東日本大震災復興構想会議はまず真っ先に原発災害対策を取り上げるべきであった。だが事態は逆で、政府は当初原発災害を議題から外して復興構想を検討しようとさえしていた。さすがにこのやり方は通らず原発対策も含めることになったが、結果がお座なりのものになったのは言うまでもない。
佐藤福島県知事は、復興構想会議の席上において早くから「原子力災害による被災地域の再生に関する特別立法」の制定を唱えていた。立法趣旨は「原子力災害の避難者のふるさと帰還を支える地域づくり」「放射線影響からの住民の安全確保」「特定振興地域制度等による地域及び経済の振興」を3本柱にするもので、もしこの特別立法が制定されていれば今日のような原発周辺地域の苦悩はもっと軽減されていたであろう。
東日本大震災のコアは原発災害にある。この点が過去のいかなる災害とも異なる東日本大震災の決定的な特徴である。しかし、政府首脳はもとより環境省や復興庁など関係省庁も原発災害からの復興の見通しについては語ろうとしない。いや語れないのである。次期政権の前哨戦である民主党代表選挙や自民党総裁選挙においても、東日本大震災の復興課題はもはや後景に退いている。今後数十年あるいはそれ以上にも及ぶと予想される原発災害からの復興はいったいいかなる道を歩むのか、また原発周辺地域の運命はどうなるのか。
2012年3月、遅まきながら復興庁提出の「福島復興再生特別措置法」が成立した。この特別措置法について日本弁護士連合会(日弁連)会長声明は以下のような評価をしている。
(1) 原子力政策を推進してきた国の社会的責任を明記したこと。
(2) 福島の復興及び再生に関する施策について、住民一人一人が豊かな人生を送ることができるようにすることを旨とし、福島の地方公共団体の自主性及び自立性を尊重しつつ、さらに福島の地域コミュニティの維持に配慮して行うことを明記したこと。
(3) 放射性物質による汚染の状況及び人の健康への影響等に関する正確な情報の提供を明記したこと。
(4) 放射線による被ばくに起因する健康被害が発生した場合に、保健、医療及び福祉にわたる措置を総合的に講じることを明記したこと。
(5) 国が健康管理調査のために福島県が設置する基金に、予算の範囲内において必要な財政上の措置を講じるものとしたこと。
しかし同時に、日弁連声明が残された課題として「被害者に対する生活給付金等の支給などの生活再建支援制度を具体的に盛り込むべきこと」、「「予算の範囲内」ということで必要な施策に対する財政的措置を制約することなく十分に行うべきこと」、「本特別措置法は福島県の住民だけを対象としているが、県外に避難した者又は一定の放射線量が検出された福島県外の地域の住民に対する施策についても対象とすべきこと」を銘記している。このようにいま最も求められているのは、原発周辺地域とりわけ他地域に避難を余儀なくされている被災者の救済であり、次の生活再建に向かっての継続的な支援なのである。

原発災害には独自の復興政策が必要だ
原発災害・原子力災害に関する法律には、「原子力災害対策特別措置法」(1999年)がある。東海村の原子炉事故を契機に制定された原子力事故対策に関する特別法であり、内閣総理大臣に全権を集中し、政府・地方自治体・原子力事業者を直接指揮し、災害拡大防止や避難指示の命令を行使できるようになっている。しかし今回の福島原発災害のような大災害は全く「想定外」であり、したがって長期にわたる被災者の救済や被災地の復興に関する法律はこれまで準備されてこなかった。
今回成立した「福島復興再生特別措置法」も、第1条に「原子力災害からの福島の復興及び再生の基本となる福島復興再生基本方針の策定、避難解除等区域の復興及び再生のための特別の措置、原子力災害からの産業の復興及び再生のための特別の措置等について定めることにより、原子力災害からの福島の復興及び再生の推進を図り、もって東日本大震災復興基本法第二条 の基本理念に則した東日本大震災からの復興の円滑かつ迅速な推進と活力ある日本の再生に資することを目的とする」とあるように、それはあくまでも東日本大震災復興基本法の一環であり、地域的には「福島」に限定されたものになっている。
しかし「福島」は「フクシマ」に発展させなければならないのであって、福島原発災害のなかに「東日本大震災=東北(岩手・宮城)大震災」が包含されるのでなければ、福島の復興は見通しが立たないというべきであろう。なぜなら、たとえ「東北大震災」の復興に一定の目途がついたとしても、福島原発災害は時間的にも空間的にもはるかにそれを上回る復興対策が要求されるからであり、それを満たせないとき原発周辺地域は巨大な「核のゴミ捨て場」に変貌していく可能性が高いからである。次回は、この国の支配体制が原発災害の後始末をどのように考えているかを検証しよう。

●補注:朝日新聞のスクープで除染作業の手抜き現場が報道されたが、石原環境相はなぜか除染作業を請け負ったゼネコンの処分に踏み切らない。