川内村への道程は遠かった、“帰村宣言”は現実のものとなり得るか(1)、福島原発周辺地域・自治体の行方をめぐって(その17)、震災1周年の東北地方を訪ねて(88)

広野町から川内村へ行く道程は遠かった。震災前なら広野町から北上して富岡町に入り、20キロほど西方面に行けば川内村に着ける。だが福島第2原発が立地している富岡町は全町立ち入り禁止なので、常磐自動車道の広野インターから一旦元の道をバックしていわき中央インターで降り、そこから延々数十キロの谷間の山道を北上しなければならない。いわば川内村浜通りに向かう「表口」を封鎖され、いわき市を迂回しなければ浜通りに出られない「袋小路」になったのである。

谷間の国道399号線は「国道」とは名ばかりで、すれ違いもままならない狭い幅員の箇所が随所にある。昼間でも自動車の通行はほとんどみられず、夕方になるとあたり一帯は突然暗闇に包まれる。同行者がいなければとても一人では行けそうにもないヘアピンカーブが連続する山道なのである。でも、ようやくたどり着いた村役場の前には10台近くの車が止まっていて何となく活気があり、やはり役場が戻らなければ地域の復興はスタートできないと感じた。

川内村に入るとまず真っ先に目に飛び込んでくる光景は、沿道の各地に置かれたブルーの大型ゴミ袋の山だ。正式には「フレキシブルコンテナ」というそうで、除染作業で排出された廃棄物や汚染土が詰められている。これを取りあえず村内4カ所の仮置き場に運んで保管し、中間貯蔵施設ができればそちらの方に搬出する予定になっているという。沿道のあちこちで農家の除染作業が行われており、村人たちの「除染隊」が数人単位で作業に当たっていた。

私が川内村に是非とも行きたいと思ったのは、遠藤雄幸村長のブログ・『日々ゆうこう』を読んでからのことだ。このブログに綴られている3.11以降の村長の行動記録は、原発災害に直面する自治体首長の苦悩と奮闘を象徴するものだと言ってよい。それはまた、住民の生命と財産を守ることを使命とする自治体のあるべき姿を示す「生きた記録」だとも言える。

2012年1月31日の「帰村宣言、戻れる人から戻りましょう!」の趣旨は概ね次のようなものだ。(要旨)

川内村全域が第一原子力発電所から30kmの範囲にあり、その事故によって昨年3月16日に村議会や行政区長会と協議をして「全村避難」を指示しました。そして4月22日には屋内退避区域から20km圏内が警戒区域に、また30km圏内が緊急時避難準備区域に設定されました」

「その後、緊急時避難準備区域が9月30日に解除されました。その前段として住民の帰村や行政の再開などを網羅した復旧計画を策定し、帰村するために除染の実施や雇用の場を確保することなどさまざまな角度から諸準備を進めてきました。1月14日から19日まで村内4か所を含む仮設住宅集会所など10か所で「帰村に向けた村民懇談会」を開催し、「戻れる人は戻る。心配な人はもう少し様子を見てから戻る」の方針のもと意見を交換してまいりました」

「その結果、村民皆様からは4月1日からの行政機能や保育園、小中学校及び診療所の再開、商店や生活バス路線などライフラインの確保、そして村民の帰村など一定の理解を得られたものと考えております」

「また先般、議会や行政区長会にもその内容を報告しましたが、帰村の時期について慎重な意見もありました。しかしながら行政機能の再構築を最優先課題と位置づけ、今後、復興再生に向け全力で取り組んでいく覚悟です。帰村後も福島県からのご支援とご協力を賜るため、佐藤知事にもご報告いたしました。マスメディアの皆さんを通して、県内や全国26都道府県に避難している村民の皆様に帰村を促すため「帰村宣言」をするものです」

「避難生活を余儀なくされている村民の皆様、ふる里、川内村を離れ慣れない地で辛い新年を迎えられたことと思います。2012年は復興元年と考えております。スタートしなければゴールもありません。お世話になってきた多くの方々への感謝の気持ちを忘れることなく試練を乗り越えていく覚悟です。共に「凛としてたおやかで安全な村」を作って参りましょう」

この帰村宣言を出す前に、遠藤村長は2011年10月末から11月上旬にかけてチェルノブイリの被災地調査に訪れている。清水福島大副学長が個人的に呼びかけた「ウクライナベラルーシ福島調査団」の一員としてである。30人のメンバーの約半分が研究者、残り半分は自治体首長や職員、農協・森林組合・生協・NPО関係者などで構成されていた(清水教授は、彼が大学院生時代に京都の過疎地域の共同研究をした研究仲間だ)。

このチェルノブイリ被災地の訪問が遠藤村長に与えた影響は決して小さなものではなかった。遠藤氏はブログのなかで「チェルノブイリ市内の記念公園に事故で消滅した自治体の名前が並んでいる。188本のプラカードが塔婆のように建っている様は他人事ではない。生まれ育った村の名前が書かれたプラカードの根本に花が添えられていたのが印象的であった。公園の片隅には、「FUKUSHIMA」と書かれたモニュメントがあった。既に「FUKUSHIMA」は世界共通語になっていた」と書いている。

また2012年11月23日に放映されたNHKスペッシャル・『シリーズ東日本大震災、“帰村”村長奮闘す〜福島・川内村の8カ月〜』においてもこのシーンが映され、遠藤氏は「川内村をプラカードにしてはいけないと思った」と述べている。(つづく)