再録『ねっとわーく京都』2013年1月号、野田首相が“民主党をぶっ壊す”総選挙〜福島の再生なくして日本の再生なし〜東日本大震災1周年の東北3県を訪ねて(最終回)、(広原盛明の聞知見考、第24回)

今回の総選挙をどう見るか
2012年12月4日公示、16日投開票の第46回総選挙が間近に迫った。11月14日の党首討論野田首相衆院解散を突如表明した以降、2日後の16日にははやくも解散が挙行されるなど、この間の政局は一転して台風の目に突入した。野党側はもとより民主党サイドにとっても事態は予期せぬ展開となり、与党内の解散反対派は慌てふためく様となった。
この解散は、進退きわまった野田首相が政権を投げ出した「追い込まれ解散」との評価が一般的であり、その背景には国民の期待を悉く裏切った民主党政権政権交代から僅か3年有余で分裂し、離党者が続出してもはや政権を担えず混迷状態に陥ったという現実がある。また野田内閣の支持率が「危険水域」の20%を割り、不支持率も60%を超えたという世論状況も後押ししている。国民の審判はもはや明らかだという他はない。
だがしかし、私には野田首相がそれだけの理由で解散に踏み切ったとは到底思えない。民主・自民の保守2大政党制が機能しなくなり、政界再編が必至の状況の下で、野田首相が「税と社会保障一体改革」や「TPP参加」に同調しない民主党一派をこの際思い切って切り捨て、次の自公民3党大連立政権の構築に政治生命を賭けたのだと考えている。それはちょうど、小泉首相が“郵政選挙”を仕掛けて「自民党をぶっ壊した」ように、野田首相もまた“税と社会保障一体改革選挙”を踏み絵にして「民主党をぶっ壊す」ことに狙いを定めたのである。
もともと松下政経塾出身の野田首相には、民主党自民党の垣根などまったくない。どちらの政党に所属すれば逸早く国会議員になれるかだけが政党選択の基準であり、現に松下政経塾出身の国会議員は民主・自民両党にあまねく分布している。親米・新自由主義が彼らのなかに刷り込まれた政治信条である以上、現住所である民主・自民の保守2大政党はあくまでも「途中下車駅」に過ぎないのであって、目的地はあくまでも“親米・新自由主義大連立政権”にあることは自明の理なのだ。

原発ゼロ・護憲連合結成が急務
その一方、この総選挙にはもうひとつの見逃すことのできない危険な兆候がある。それは、この間の政治空白の間隙を縫って橋下新党(日本維新の会)と石原新党(太陽の党)が極めつきの大野合を画策し、“極右第3極”を形成して政界再編をうかがっていることだ。石原・橋下氏という稀代の「デマゴーグ」(扇動政治家)を2枚看板とする「極右第3極」は、ナチス党が当初は国民受けする政策と議会重視のソフトな装いで議会進出を果たしたように、最初から「改憲」「集団自衛権行使」「核武装」といったハードな政策を掲げているわけではない。表向きは「国の統治構造を変える」などと抽象的な言葉を散りばめながらも、国会で一定の議席を占めれば、安倍自民党などと組んで一挙に右傾化する可能性(危険性)は十分あると言わなければならない。
今回の総選挙は、おそらく21世紀の日本の政治動向を決める歴史的な選挙になるに違いない。野田首相が目論んだように、この総選挙を契機にして民主・自民の保守2大政党は名実ともに崩壊に向かい、保守勢力は自公民主流派から編成される「新自由主義構造改革グループ」と「その他(残余)保守」に分裂していくだろう。またこれにともない「その他保守」の一部が「極右第3極」に合流するとか、場合によっては「革新勢力」と手を組むなど、従来には見られなかった多様で複雑な政治状況が出現するだろう。
そして革新政党がこれらの複雑多様な政治状況に柔軟に対応するためには、個々の政党レベルの活動に加えて、「原発ゼロ・護憲」を基軸とする“国民第3極”(原発ゼロ・護憲連合)を結成し、「その他保守」や「無所属・無党派層」との連携を深めていくことが求められるようになるだろう。
すでに“国民第3極”の原型は出来上がっている。毎週金曜日の官邸前デモや全国デモに見られるように、国民・市民の圧倒的な原発反対エネルギーは衰えることなく継続しているし、「9条の会」が10年近くにわたって粘り強く掘り起こしてきた草の根平和運動も全国各地に固く根を張っている。今回の総選挙には間に合わないかもしれないが、当面は東京都知事選挙でまず「原発ゼロ・護憲連合」の原型をつくり、来年の参院選挙では全国展開できる政治状況を必ずやつくり出さなければならないと思う。
都知事候補・宇都宮けんじさんの公約
さる11月14日に東京中野で開かれた『東京を変えるキックオフ集会〜宇都宮けんじさんとともに人にやさしい東京を!〜』では1200名定員の会場が溢れるほどの超満員となり、宇都宮さん(前日弁連会長)が都知事選における事実上の市民・革新統一候補となった。宇都宮さんは11月11日に開かれた首相官邸前の反原発集会に参加したとき、多くの市民から都知事選の出馬に対して激励を受けたことを紹介して次のように語った。
「胸が一杯になった。脱原発の東京を作らなければならない。それが原発のない日本と原発のない世界につながる。福島原発事故が起きたとき、自分は日弁連会長だった。福島の人たちと向かい合いながら支援をした。原発事故被害者支援法などを提案した」
「石原の福祉・弱者切り捨ては許せない。石原都政で貧困・格差が広がった。教育現場では日の丸・君が代強制と教育の管理統制が強化された。一番の被害者は子どもたちだ。民主主義社会の後継者を育てるのが教育の役割のはずだが、それがないがしろにされている。都政の転換が必要だ」
 「私は弁護士でもあるので、憲法が守られる東京を作りたい。石原は尖閣問題を引き起こし、憲法改悪を主張している。私は憲法の「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」をしっかり守り、アジア諸国と良好な関係を築きたい。東京から憲法が守られる平和な日本を作っていきたい」
 東京都知事選の重要性は、半世紀前の1967年都知事選挙(美濃部当選)がその後の革新自治体時代を切り開く歴史的転換点になったことを思い浮かべるだけで十分だろう。現時点の右傾化一色の政治情勢を打開するためにも、また21世紀の日本の未来を展望するためにも、今回の都知事選勝利は比類ない意義を有している。ここには紛れもなく「親米・新自由主義大連立政権」や「極右第3極」に対抗し得る“国民第3極”(原発ゼロ・護憲連合)の原型があるのであって、私たちは必ずや東京都知事選挙に勝利し、石原都政に終止符を打つことによって「極右第3極」の芽を摘まなければならないと思う。

福島原発災害はどうなる
一方、いまから1年有余前の2011年9月2日、野田首相首相官邸で行った首相就任会見で次のような見解を披歴した(要旨)。
 「震災からの復旧・復興は、私どもの内閣については菅内閣に引き続き最優先の課題であると思っております。この震災の復旧・復興をこれまでも政権として全力で取り組んでまいりました。しかし、仮設住宅の建設であるとか瓦礫の撤去あるいは被災者の生活支援に一生懸命取り組んでおりますけれども、まだ不十分というご指摘もある。こうした声をしっかり踏まえながら復旧・復興の作業を加速化させていくということが私どもの最大の使命であると思っています」
 「加えてなによりも最優先で取り組まなければいけない課題は、原発事故の1日も早い収束でございます。福島原発の炉の安定を確実に実現していくということと原発周辺地域における放射性物質の除染が大きな課題でございます。大規模な除染を国が先頭に立って省庁の壁を乗り越えて実施していく必要があると考えています。また特にチルドレンファーストという観点から、妊婦そして子供の安心を確保するために全力を尽くしたいと考えております」
「代表選挙の時にも申し上げさしていただきましたけれども、福島の再生なくして日本の再生はございません。この再生を通じて日本を元気にするとともに、国際社会における改めて信頼をはかる意味からも全力で取り組んでいきたいと考えています」
 福島第1原発事故への拙劣な対応によって菅首相が退陣に追い込まれたことを意識してか、野田首相の就任会見は福島原発事故に始まり、原発災害の復興対策で終った。以降、「福島の再生なくして日本の再生なし」は野田政権のキーワードになったのである。
 だがそれから1年有余後、2012年衆院解散にともなう11月16日の記者会見では、野田首相の関連発言は「内閣の中で大きい命題として取り上げた震災からの復旧復興、原発事故との戦い、日本経済の再生はまだ道半ばだ」との一言で終わった。それはそうだろう。「災害復旧復興は野田内閣の最優先課題、最大の使命」「原発事故の収束、放射能除染に全力で取り組む」との自らの言明にもかかわらず、野田政権のやったことは、原子炉の冷温停止状態の達成だけで「事故収束宣言」を出し(2011年12月)、国民の圧倒的世論を無視して大飯原発を再稼働させ(2012年6月)、原発ゼロ政策の閣議決定アメリカと財界の圧力に屈して見送り(同9月)、あまつさえ大間原発の工事再開を決定したことだけだった(同10月)。また放射能汚染地域の本格的除染が漸く始まったのは2012年8月からだ。
福島原発周辺自治体を訪れて
この「東日本大震災シリーズ」を一旦終了するためには、福島原発周辺地域の自治体調査はどうしても行わなければならないと考えていた。8月末には取りあえず南相馬市飯舘村に行ったが、時間が十分取れず満足な調査が出来なかった。そこで今回は11月11日から13日の3日間、福島県双葉郡浪江町広野町山内村の3自治体を駆け足で回った。浪江町は第1原発の10キロ圏内、広野町川内村は第1原発の30キロ圏、第2原発の20キロ圏に位置するいずれも原発周辺自治体だ。
このうち広野町は、原発事故発生以来、町全域が緊急時避難準備区域に指定されて避難を余儀なくされ、避難が解除されたのは2011年9月末だ。その後、広野町は住民の帰還を促すため、2012年3月に役場機能を元の広野町役場に戻すことを決意した。川内村も同じく緊急避難準備区域に指定されて全村避難していたが、遠藤村長が2012年1月末に「帰村宣言」を行い、役場や小中学校などの公共施設を4月から元の場所で再開した。しかし浪江町は依然として放射線量が高く、帰宅困難区域や居住制限区域などに指定されていていつ帰還できるかわからない。浪江町二本松市の仮設役場で依然として避難状態を続けざるを得ないのである。
東北の冬の訪れは早い。11月下旬ともなると山間地は雪が降るので中旬までが調査のタイムリミットだ。浪江町仮役場は東北本線(在来線)二本松駅から7キロほど離れた工業団地の真中にある。この場所なら自動車を運転できない私でもタクシーを使って一人で行ける。しかし広野町川内村はそうはいかない。広野町は新幹線福島駅前でレンタカーを借り、朝早くから地元の人に運転してもらって東北・磐越・常磐の高速道路100数十キロをひた走りに走り、常磐自動車道が通行止めになる広野インターで降りてから市街地に入るという道筋だった。それから以北は全ての道路が閉鎖されていて、警察機動隊がいまも24時間警戒に当たっている。
広野町いわき市に隣接しているだけあって、工事用車両がやたらと多い。原発事故対策の拠点施設となった有名な「Jヴィレッジ」が役場の近くにあって、毎日数千人にも上る原発作業員が出入りしているのだから賑やかなはずだ。だが役場とともに帰還した住民はまだ1割程度に過ぎないので、住民の姿は人っ子ひとり見えず、道路を歩いている人もいない。役場に到着して職員に会ったのが最初の町民だと言う有様だ。役場の前には図書館が併設されているが、照明が落とされていて薄暗く、室内は不気味なほど静まり返っていた。
だが川内村へ行くのはもっと大変だ。本来なら広野町役場から常磐自動車道を北上して富岡インターで降り、20キロほど西に行けば川内村に着けるのだが、富岡町は全町立ち入り禁止なので広野インターから一旦元の道をバックし、途中のインターで降りてそこから延々数十キロの谷間の山道を北上しなければならない。沿道の紅葉はきれいだが自動車の通行はほとんどなく、夕方になるとあたり一帯は突然暗闇に包まれる。同行者がいなければとても一人では行けそうにもない山道だ。でもようやくたどり着いた村役場の前には沢山の車が止まっていて、たとえ1割といえどもやはり役場が戻らなければ村人は戻ってこないことを実感した。
浪江町では半日、広野町川内村では1日を費やしたが、この間の走行キロは400キロを超えた。積雪期になると車が思うように走れないので、高齢者が多い冬場の生活の困難さは想像を超える。しかし今回の調査は主として役場の話を聞くことが目的なので、仮設住宅で冬を越す人たちの様子はまたいずれ別の機会に伝えたいと思う。

役場幹部・担当者の決意は固い
今回の調査対象に選んだ3自治体は、いずれも困難な条件の下で頑張っている(と伝えられる)自治体だ。浪江町原発事故現場から僅か数キロの位置にあって最も危険な状態に曝されており、いつ帰還できるかわからないという苦悩に満ちた町である。また広野町川内村は今年3月から4月にかけて役場が率先して戻の場所に帰り、住民に帰還を呼びかけている自治体だが、住民がなかなか戻ってこないので苦労していると聞いた。
私はマスメディアを通しておよその事情は察していたが、現場の最前線で頑張っている役場の幹部や担当者の生の声をどうしても聞きたかった。幸い浪江町とは今年8月に仙台市で開かれたシンポジウムに参加した復興推進課主幹と知り合いになり、今回は担当者2人から長時間にわたって復興の見通しについて詳細な説明を受けることができた。そして担当者の「ふるさとを取り戻す」という揺るがぬ決意と周到な復興計画の内容にいたく感銘を受けた。
この10月にまとまったばかりの最新の『浪江町復興計画(第1次)』によれば、浪江町の復興は空間的には「町内」と「町外」、時間的には「短期(震災より3年)、「中期(同6年)」、「長期(同10年)」の3段階に分かれている。いわば放射線量の時間的低減を視野に入れた長期戦の構えだ。「町内」対策としては、事故を起こした第1原発から北西方向に走る高放射能ベルト地帯の両側に広がるエリアを除染によって漸次低線量地区化し、インフラを整備して一定の条件が整った地域から漸進的に「居住エリア」を広げていくという作戦だ。またこれと並行して「町外」ではこの間の避難生活を乗り切るための“町外コミュニティ”を整備し、周辺の住民との交流を進めながら「町内帰還」の条件を整えるという“両にらみ作戦”が進められている。
これは浪江町の復興基本方針が「すべての町民の暮らしを再建する〜どこに住んでいても浪江町民〜」「ふるさと浪江を再生する〜受け継いだ責任、引き継ぐ責任〜」「被災経験を次代や日本に生かす〜脱原発、災害対策〜」を原則としているからだ。つまり町外に避難している住民すべての生活を保障するとともに、町内のふるさとをあくまでも見捨てず、中長期的に粘り強く復興させていこうとする固い決意がそこにみられるのである。

避難生活は“長い修学旅行”
もうひとつ感じたことは、これら自治体幹部や担当者の強靭な精神力の存在だ。震災以来月平均100数十時間を超える残業の激務をこなしながら、それでいて「何とかなる」「何とかする」との気持ちを少しも失っていない。いわば“確信的楽観論”ともいうべき精神状態を持ち続けているのである。このことを象徴するのが、広野町企画グループリーダーの「避難している住民は長い修学旅行に行っていると思っている」との言葉だった。
普通なら役場が戻ったにもかかわらず住民が1割しか戻っていない現状は、幹部や担当者にとっては苦痛以外の何物でもないはずだ。「何とかしなくては」と焦るのが通常の感覚だろう。でもこの担当者は違った。「避難した人たちは必ず帰ってくる」「長い修学旅行に行っているだけだ」と確信しているのである。この言葉を聞いたとき、私は最初強がりでそう言っているのではないかと思ったが、しばらく話をしているうちに本当にそう思っていることがわかってさらに驚いた。
また川内村の副村長は遠藤村長の薫陶を受けているのか、復興計画の基本が子どもの教育にあることを情熱的に語った。川内村ではこの4月に小中学校を役場とともに再開したが、戻ってきた児童生徒は僅か10人にも満たない。それでいて役場は絶対に複式学級にしないとの決意で教員を確保し、子どもたちを育てる環境づくりこそが復興の基本だとの方針を曲げようとしないのだ。いったいこのような“確信的楽観論”はどこから生まれてくるのか。
おそらくこれら原発周辺自治体では、放射性物質の除染作業には限界があり、ふるさとの再生と復興は放射能の自然低減を気長に待つ他はないとの認識が行き渡っているのではないか。短期的にどのような対策を講じてもふるさとへの帰還が叶わないのであれば、残された道はただ待つ他はない。しかしこのことをよく考えて見れば、「待つ」ことは被災地の復興まちづくりの基本でもある。たとえ鉄とコンクリートで固めた復興事業が短期間で完成したとしても、そこで働き住み続ける住民がいなければ「ゴーストタウン」「ゴーストヴィレッジ」への運命をたどる他はないからだ。長期持久戦に耐える“ひとづくり”こそが本物の復興であり、そこに東北復興の鍵があるのである。

●補注:「原発事故収束宣言」を出し、大飯原発を再稼働させ、大間原発の工事を再開させた民主党野田政権は、結局のところ原発堅持を掲げる自民党政権の露払いに過ぎなかった。