国政でも大阪でも挫折した橋下維新、本格的な維新批判の論評がマスメディアから出始めた、改憲勢力に如何に立ち向かうか(27)

 これまで橋下維新に関するマスメディアの対応にはとかく問題が多かった。派手なパフォーマンスを面白半分に報道する、発言の中身を十分吟味もしないでそのまま垂れ流す、あるいはくるくる変わる主張の検証もせずその都度追認するなどなど、およそジャーナリズムの風上にも置けない状況が続いてきた。

 その風向きが少し変わったのが橋下氏の「慰安婦・風俗必要発言」だった。これが「第1の転換点」だったといっていい。橋下発言が国際問題化するに及んで、維新に対する従来通りの追随的な報道姿勢が許されなくなり、このまま安易な報道を続ければ、日本のマスメディア自体が国際的な批判にさらされる状況が出現するに及んで、報道姿勢が若干変わったのである。

 しかし、事柄はまだ「慰安婦・風俗発言」問題に限定されていて、本格的な政党論や党首論からの維新分析は出てこなかった。全体の政治構図から切り離された形で橋下維新がクローズアップされ、あたかも彼らだけが「政界の風雲児」であるかの如き特別待遇を受けてきたのである。維新に対する「ふわっとした支持(民意)」はこれらマスメディアのつくり出した幻影に他ならず、実像に迫る報道や論説からは程遠いものがあったといわなければならない。

 ところが参院選後あたりから、「第2の転換点」が始まった。それは橋下維新の伸び悩みとも連動しており、これまでマスメディアが形作ってきたイメージと実態の間のギャップがもはや限界に達したことを意味している。マスメディアの繰り出す数々な報道も受け手の関心やニーズに合致しなければ、「商品」としては長続きしない。橋下維新と言う対象が飽きられ、視聴率が低下し、発売部数が減れば、自ずからニュースバリューも無くなるというものだ。

 参院選堺市長選の狭間に位置する現在は、ちょうど橋下維新への関心が薄れてきた時期と合致する。参院選の結果を見て「国政」視点からの期待は失望に変わり、堺市長選の成り行きを見て「大阪」視点からの期待は幻滅に変わりつつある。その絶妙のタイミングをとらえた論説が、毎日新聞オピニオン欄の野口武則記者の「国政で挫折した橋下氏」と題する署名入り記事だ(『記者の目』、2013年8月22日)。

 大阪社会部に属する野口記者は、7月27日の党執行役員会で橋下氏が代表職の辞意を表明した事態を重く見る。そして辞意は撤回したものの国会での野党再編は国会議員に任せ、自らは結党の原点である「大阪都構想」実現のために大阪市長職に専念するとしたことを以て、事実上の「国政撤退」と見なし、国政政党の党首としての「挫折」であると判断するのである。鋭い指摘だ。

 野口記者はまだ「大阪での挫折」については言及していない。また堺市長選については一言も触れていない。しかしその文脈を読めば、橋下維新が大阪でも国政と同様に行き詰る可能性が大きいことを示唆していることがよくわかる。たとえば次の一節がそうだ。

 「橋下氏は今後、大阪で実績を挙げて自ら国政を狙う可能性を探るのだろう。しかし今のスタイルでは行き詰まる。政治家には、選挙で有権者にメッセージを伝える能力と、多様な利害を調整する能力が求められる。橋下氏は大阪では、突出した発信力で「民意」を得て利害調整の場面も押し切ってきた。しかし、選挙は政治の一つの手段であって、すべてではない。都構想は今後、大阪市を再編する区割りや財源調整など、住民の損得が絡む利害調整の局面に入る。民意だけでの強行突破は困難だ。それをどう乗り越えるのか。橋下氏は今、党首としてだけでなく、政治家としての真価を問われている」

 私はこれまでも主張してきたように、橋下氏が大阪都構想に関する大阪市での利害調整に入る前に、堺市長選の敗北によってその前提すべてが崩壊すると予測している。橋下氏は「選挙がすべて」、「選挙で得た民意がすべて」とばかり選挙結果を振りかざして専制政治を強行してきた。だが皮肉なことに、橋下維新は堺市長選を目前にしながら、「勝てない選挙」に直面している。党首として、政治家としての真価を問われる前に「挫折」と「退場」が待っているのである。

 これは全ての政治現象に共通する特徴であるが、政党も政治家も国民や有権者から“飽きられる”日が必ずやってくる。政権についた民主党が恐ろしいほどのスピードで国民から飽きられたことを、私たちは目のあたりにしている。どんなに足掻いても、どれほど縋りついても、いったん離れた民心は再び戻ってこない。橋下維新についてはもはやとやかく言う必要はない。彼らはもう“飽きられた“のであり、だから「選挙がすべて」を決するのである。(つづく)