これまで自民党の「下駄の雪」だった公明党は、今度は安倍内閣の「下駄の鼻緒」になった。でも、擦り切れた「下駄の鼻緒」はいずれ国民に捨てられるだろう、維新と野党再編の行方をめぐって(その22)

 6月25日の各紙は一斉に「公明、集団的自衛権 大筋で合意」と伝えた。前日の24日、与党協議会の高村座長が示した武力行使の「新3要件」を公明党が評価し、憲法解釈を変えて他国を武力で守る集団的自衛権の行使を容認したのである。公明党の北側副代表が原案を用意し、自民党の高村副総裁がほんの少し手を加えただけの文面だから、公明党が合意することは「予定の行動」だったのだろう。北川氏のシタリ顔が何よりもそのことを物語っている。

 でも西日本新聞の世紀の大スクープにもかかわらず、他紙がいっこうに後追い記事を書かず、「新3要件」があたかも「高村私案」の修正版として扱っているのはどうしてなのか。おそらく官邸記者クラブ(あるいは有力紙)と安倍政権との間に「秘密協定=密約」が結ばれ、自公両党間の謀略の経緯をニュースにしないとの取り決めが行われたからではないか。そうでなければ、こんな政界を揺るがす大ニュースが1行も記事にならないことなど起こるはずがない。憲法破壊とともに、マスメディアの「大本営発表化」が進行しているのかもしれない。

 それにしても、公明党は歴史的大罪を犯した。ひとつは安倍政権の解釈改憲に加担することによって立憲主義(政治権力の恣意的支配に対抗し、憲法によって権力を制限する原理)を破壊し、ひとつは集団的自衛権の行使容認によって平和主義(憲法9条)を蹂躙した。しかも、そのやり方が呆れるほど汚い。表向きは「集団的自衛権の行使は認められない」などといいながら、その舌の根が乾かないうちに「限定容認」に傾き、最後は自らが「武力行使の3要件」までつくって自民党を先導する有様だ。これでは「踏まれても付いていきます下駄の雪」どころの話ではない。まるで「権力の走狗」という言葉が真っ青になるほどの先走りではないか。

 そういえば、公明党の山口代表は都内の講演で自民党との連立政権のあり方について以前こんなことを言っていた。「公明党は(下駄の雪ではなく)下駄の鼻緒。鼻緒が切れたら、下駄で歩けなくなる」。読売新聞はこの言葉の意味(連立政権における公明党の重要性)を解説して次のように書いた。

 「自民党と連立政権を組んで以来、公明党自民党の主張を大筋では受け入れることが多いとして、踏みつけられてもついて行く「下駄の雪」に例えられてきた。ただ、安全保障や教育改革など安倍首相が意欲を示す政策には公明党内に不満がある。 集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の見直しに関しては、漆原良夫・公明党国会対策委員長が25日の自身のメールマガジンに「閣僚だけで決定するのは乱暴だ」と書き込んだ。 山口氏の発言は「下駄の雪」にはならない覚悟を示し、首相に慎重な対応を求めたものとみられる」(読売新聞、2014年2月27日)

 だが今となっては、読売新聞の解説は明らかに意図的な間違だったと断言できる。山口氏の言う「公明党は下駄の鼻緒」の本当の意味は、公明党自民党の「下駄の雪」にはならない覚悟を示し、安倍首相に慎重な対応を求めたものではなくて、その逆に安倍政権の解釈改憲による集団的自衛権の行使容認を積極的に支援するための「決意と覚悟」を示す言葉だったのだ。公明党がご主人である安倍首相の「下駄の鼻緒」になり、たとえご主人が暴走しても「下駄が脱げないようにしっかりと支える鼻緒になります」との決意表明だったのである。

 マスメディアは言うに及ばず、護憲勢力の間でも公明党の真意を見抜き、彼らが自民党安倍政権を支える「下駄の鼻緒」であることを認識していた人たちはそれほど多くなかった。恥ずかしながら私とて、一時は創価学会広報部の「集団的自衛権に関する憲法解釈は従来どおり」との声明に期待をかけ、創価学会公明党関係者にもっと積極的に働きかけるべしと主張していたほどだ。だが宗教団体である創価学会に政治判断や政治行動を期待するのは「筋違い」というものだろう。行動の対象はあくまでも政治団体としての公明党であり、公明党の政治姿勢や政策を中心に政治判断をし、問題があれば呵責ない批判を加えるべきだったのである。

 公明党創価学会はこれまで「政教分離」を建前としてきた。近代政党である以上当然のことではあるが、多くの国民は「政教一体」ではないかと疑ってきた。実態はそうであるかもしれないが、しかし今度の場合、その判断が裏目に出たことは否定できない。公明党が「下駄の雪」であっても、創価学会がそうでなければ何とかなるのではないかとの淡い期待があったのだ。そして創価学会に配慮するあまり、公明党にまで配慮を重ね、「下駄の雪」が「下駄の鼻緒」に変わっていたことを最後まで見抜けなかった。残念なことだ。

 私は今回のことを教訓にして、公明党には今後一切の期待を持たず、自民党安倍政権の「使い走り」としての役割に注視することにする。多くの国民もまた「政教分離」の原則の下に公明党をみるようになり、自民党の「下駄の鼻緒」としての公明党の本質を理解するようになるだろう。そして「擦り切れた下駄の鼻緒」は容赦なく取り替えられるか、あるいは「擦り切れた下駄」とともにゴミ箱に投げ捨てられることになるだろう。(つづく)