結党50年、公明党は「表向き野党」から「責任与党」への大変身を遂げた、自公連立政権維持による「現世利益」追求と「平和の党」の結党理念の矛盾を取り繕うためにはウソをつくしかない、維新と野党再編の行方をめぐって(その27)

公明党は今年で結党50年を迎えるのだという。公明党の結成大会が開催されたのは1964年11月17日、その3年前の1961年11月27日には前身の「公明政治連盟」が結成されているので、政党の歴史は半世紀余にも及ぶ。昨今の新政党が1年も経たないうちに泡(あぶく)のように消えていく文字通りの「泡沫政党」であることを思えば、いまや公明党は押しも押されぬ「老舗政党」だと言えるのかもしれない。安倍首相が「責任野党」と持ち上げながら、維新・結い・みんななどの「泡沫政党」との連携になかなか踏み切らないのは、公明党の組織基盤が安定しており、自民党を支える「下駄の鼻緒」(集票集団)としての役割にそれなりに満足しているからだろう。

公明党(公明政治連盟を含む)の半世紀余りの歴史を政権に対する立ち位置(与党、野党)からたどってみると、「表向き野党」→「責任野党」→「補完与党」→「責任与党」の4段階を経て現在に至ったことがわかる。「表向き野党」の時代は、公明政治連盟の発足(1961年)から言論出版妨害事件(1969年)に至るまでの約8年、発足に当たって掲げられた基本政策は「核兵器反対」、「憲法改悪反対」、「公明選挙」、「参議院の自主性確立」の4つだった。なかでも「核兵器反対」と「憲法改悪反対」は基本政策の第1項目、第2項目に掲げられ、そこには「核兵器反対。いかなる理由を問わず、核兵器の製造・実験・使用に反対する(略)」、「憲法改悪反対。主権在民を基本的な精神とし、戦争の放棄を規定する『日本国憲法』を擁護し、日本国民の平和のために公正独自の立場で改悪に反対する」と、憲法と平和を守る理念が高らかに謳われていた。

この基本政策は公明党の結党理念としても受け継がれ、池田会長の言う「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」という「庶民の党」との立党精神とともに、公明党が「平和の党」としてイメージアップされるうえで大きな役割を果たした。「庶民の党」と「平和の党」はいわば公明党の立党精神・結党理念を象徴する2本柱の政治スローガンとなり、これが大々的にキャンペーンされることで、公明党が「表向き野党」との認識が広まることになったのである。

ところが、創価学会が自分たちに批判的な著作に圧力をかけて出版を妨害するという事件が起こった。この事件は、憲法21条に規定された「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」という国民の基本的人権を踏みにじるものであっただけに世論の激しい批判を浴び、創価学会政治部としての宗教政党公明党は心ならずも「政教分離」を宣言せざるを得なかった。だが言論出版妨害事件の政治的本質は、竹入公明党委員長が田中角栄自民党幹事長に事件の「揉み消し」を依頼したことを契機にして、公明党が「表向き野党」から自公民路線を推進する「責任野党」に立ち位置を変えたことにあった。

田中幹事長が事件の「揉み消し」に動いたのは、言論出版妨害事件の直後に予定されていた京都府知事選(1970年4月)において創価学会公明党の協力がどうしても必要だったからだ。「全国の革新の灯台」といわれ、「憲法を暮らしの中に活かす」ことを政治理念として5期20年の輝かしい年輪を刻んできた蜷川京都府政は、1967年に誕生した美濃部革新都政とともに全国の「革新自治体ブーム」を象徴する存在だった。蜷川府政を打倒することは自民党の長年の悲願であり、全国の革新自治体ブームの波を阻止するうえでも避けて通れない政治課題だったのである。田中幹事長は、自公民の基礎票が社共の倍近くもあることに目を付け、自民単独では果たせない知事選の勝利を公民を巻き込むことで達成しようと企んだのである。

1970年京都府知事選は史上稀に見る激戦となった。当時、私は京大職組の一員として蜷川陣営に参加していたが、忘れられない光景がある。それは京大の西北端にある百万遍交差点での街頭演説で、ある公明党幹部が自公民統一候補の自治省内務省)官僚を推薦したことを「しみずの舞台から飛び降りる」気持ちで決意したと目の前で喋ったことだ。この街頭演説は、「『清水の舞台』を『しみずの舞台』と言うなんて、なんと恥知らずのたわ言か」と一夜にして京都中を駆け巡った。「京都のいろは」も知らない公明党幹部が同じく天下りの中央官僚候補(この候補も聖護院を「しょうごいん」と言わずに「せいごいん」と読んで失笑を買った)を担ぐ―――地方自治の精神を踏みにじるこんな自公民路線に対して誇り高い京都府民が黙っているわけがない。この街頭演説以降、創価学会員は沈黙を強いられ、そして自公民候補は大敗した。

当時の中央政界では「社公民路線」の論議が花盛りだった。社公民路線とは「非自民非共産」を掲げる社会党(右派)、民社党公明党の連携を目指す政治路線であり、公明党は「表向き野党」のカムフラージュの舞台として積極的に取り組んだ。しかし公明党の本籍が自公民路線にあることはいささかも変わらず、1970年代以降は一貫して「責任野党」としての道を歩んできたといえる。地方の首長選でも自公民路線が定番化し、公明党は万年与党としての地位を我が物にすることを目指した。(つづく)