与党密室協議の実態を知りながら、国民の前には「抵抗勢力」としての公明党の虚像を流し続けたマスメディアの社会的責任が問われなければならない、マスメディアはなぜ集団的自衛権の閣議決定前に自民・公明両党の裏取引を暴露しなかったのか、維新と野党再編の行方をめぐって(その24)

 案の定というべきか、予定通りというべきか、7月1日、集団的自衛権閣議決定が強行され、安倍首相のポンチ絵付き記者会見が終わってから以降というものは、各紙が「今だから明かそう」と言わんばかりの解説記事を流し始めた。たとえば、「(集団的自衛権の)『明記』求めた首相、公明、楽観論で誤算」(毎日新聞、2014年7月2日)、「検証 与党協議、『北側氏文言』首相が採用」(読売新聞、7月2日)、「6・10 公明と勝負ついた、首相、高村案を受諾、検証 集団的自衛権」(朝日新聞、7月3日)、「公明、狂った目算」(日経新聞、7月4日)などなどである。

 これらの解説記事によると、6月9日に自民党高村副総裁と公明党北側副代表が都内で閣議決定の根幹部分となる武力行使のための「新3要件」について話し合い(謀議し)、この話し合いを受けた翌日6月10日の安倍首相と高村氏との会談で、武力行使を認める「新3要件」を与党協議の落としどころにすることが決まったと言う。6月10日会談については、読売新聞は「公明党集団的自衛権行使の限定容認に傾いた転換点は、同党の主張をのむことを決めた6月10日の安倍首相と高村正彦自民党副総裁の会談だった」と断定し、朝日新聞はその日が「集団的自衛権を認める閣議決定の根幹となる文言が決まった瞬間だった。それは憲法が骨抜きになったことを意味した」と論評している。

 各紙が6月10日会談の内容をいつ把握したのか、私は知らない。しかし6月22日の拙ブログでも書いたように、6月13日の日経新聞(夕刊)が、6月10日会談を受けた6月13日の与党協議会の模様をきわめて正確に伝えているところをみると、各紙はすでにこの段階で6月10日会談の全容を把握していたと考えてまず間違いないだろう。そして「自衛権行使『新3要件』公明が原案 自民案装い、落としどころ」という西日本新聞の大スクープ記事が掲載されたのが、それから10日経った6月20日のことだった。自民党の高村副総裁が6月13日の与党協議で私的に提案したとされる自衛権行使の「新3要件」は、実は公明党の北側副代表が裏で内閣法制局に原案を作らせて高村氏に手渡したものだったというのである。

だが現在に至るも、各紙は西日本新聞のスクープ記事を認めていない(だが、否定もしていない)。そして朝日新聞は、見出しで「首相、高村案を受諾」とあるように、依然として「北側原案」を「高村私案」として扱っていることに変わりない。あくまでも武力行使のための「新3要件」は公明党原案ではなく、自民党案だとする立場を崩していないわけだ。いったいなぜなのか。

一方、読売新聞の方は、「『北側氏文言』、首相が採用」とあるように見出しはもう少し直裁的だ。しかし「北側氏文言」の意味するところは「新3要件」そのものではなく、「閣議決定の文言に国民の権利が『根底から覆される』という言葉を入れてほしい」と言った挿入語句程度のことにすぎない。この場合も高村氏が原案をつくり、北側氏が一部の語句修正を求めたと言う一貫したストーリーで書かれている。公明党はあくまでも「脇役」だったとの位置付けである。

私は、これら各紙の論調の背後に圧し掛かっている創価学会の(黒い)影を見ないわけにはいかない。創価学会はこれまでも「平和を愛し、その実践のために活動する熱心な宗教団体」との外観を装い、与党協議が始まる直前の5月17日には、各紙の質問に対し、わざわざ集団的自衛権の行使容認について「本来、憲法改正手続きを経るべきである。慎重のうえにも慎重を期した議論によって、歴史の評価に耐えうる賢明な結論を出すことを望む」との文書回答まで出していた。それが僅か1ヵ月半後の7月2日には態度を豹変させ、集団的自衛権の行使を可能とする憲法解釈変更の閣議決定について「公明党憲法第9条の平和主義を堅持するために努力したことは理解している」、「今後、国民への説明責任が十分果たされるとともに、法整備をはじめ国会審議を通して、平和国家として専守防衛が貫かれることを望む」との見解を文書で示したのである(産経新聞、7月3日)。

いったい誰がこのような文書を書いたのか知らないが、これではまるで「カラスを白鷺だ」と言いくるめるカルト集団の論法そのものだ。北側副代表が自衛隊の海外武力行使を認める「新3要件」の原案をつくり、山口代表が憲法9条に対する従来の姿勢を180度転換させた公明党を、こともあろうに「公明党憲法第9条の平和主義を堅持するために努力したことは理解している」なんて、並大抵の人間では言えることではないからだ。

おそらく創価学会は、この論法でこれから学会員を「折伏」していくのであろう。だがそのためには、公明党が「平和憲法の破壊者」ではなく、「平和憲法の担い手」であるとあくまでも言い続けなければならない。平和国家、平和主義を否定する自民党安部政権の「補完勢力=加担勢力」としてではなく、戦争する国への「抵抗勢力」とのイメージを保持することがどうしても必要なのである。だからマスメディアに対しては、公明党が主導して集団的自衛権の行使容認を推進した「共同正犯」だと書かれては困るのだ。閣議決定に至ったのは、脇役である「公明党の誤算」であり、「目算が狂った」結果だと説明してもらわなければ困るのである。

しかしこんなことで学会員が納得するようであれば、創価学会は今後「日本最大のカルト集団」と名前を改めなくてはならなくなるだろう。また文書は、「今後、国民への説明責任が十分果たされるとともに、法整備をはじめ国会審議を通して、平和国家として専守防衛が貫かれることを望む」とも言っているのだから、国民全体に対しても公明党はこの論法で「折伏」するつもりらしい。でも国民を侮ってはいけない。こんなカルト集団の論法で「折伏」されるほど国民は馬鹿でないからだ。

多くの解説記事の中で私が関心を持った記事がある。それは日経新聞7月4日の「切り札の選挙協力、首相『なくてもよい』」という記事だった。(つづく)