橋下・松井、衆院選出馬騒動をめぐるマスメディア論調の推移、「ラプソディー」(狂詩曲)から「フィナーレ」(終楽章)へ、そして「レクエイム」(葬送曲)へ、「出るも地獄」「留まるも地獄」の維新内幕(3)、2014年総選挙を分析する(その4)

 橋下・松井両氏の衆院選出馬騒動が終わった。見るも無残な結末だ。11月24日、維新の党橋下共同代表(大阪市長)は市内4カ所で街頭演説を行い、「大阪のために国政に出ないと判断した。これがベスト・チョイス(判断)。新聞には維新の議員が反対したとか、世間から投げ出しだと批判を受けるから諦めたと書いてあるが、世間からの批判や反発はいっさい気にしていない。これからの展開をみてほしい」と釈明した(日経新聞しんぶん赤旗、2014年11月25日)。自らの無責任窮まる行動で世間を散々振り回しておきながら、それが駄目になると、今度は「大阪のために出ない」と居直るのだから呆れる他はない。それなら、最初から出なければよかったのだ。

 この短い街頭演説の中に橋下氏一流の言い方が実によく出ている。第1は、「自分のために国政に出よう」(動機)としたことをまるきり棚に上げ、それを「大阪のために出るのを止めた」(結果)という話にすり替えること。第2は、維新議員の反対や世間の批判を受けて出馬断念に追い込まれたのに、それを「いっさい気にしていない」として批判を受け付けないこと(しかし、さすがに反対や批判があった事実は否定できなかった)。第3は、出馬断念という彼にとっては「最悪の選択」を「ベスト・チョイス」と言い張って居直ることなどなど、デマゴーグとしての面目躍如というところだ。

 しかし、この間のマスメディア報道の一連の流れを追ってみると、そこには橋下維新に対する評価がもはや「最終版」に差し掛かっていることに気付く。比喩的に言えば、マスメディアの論調は、橋下・松井両氏が出馬を匂わせた序盤は「ラプソディー」(狂詩曲)で始まり、出馬断念を受けた中盤は「フィナーレ」(終楽章)の様相を強め、そしてその後は「レクエイム」(葬送曲)へと着実に推移しているのである。具体的に説明しよう。

 序盤は11月11日、維新の党松井幹事長(大阪府知事)の産経新聞単独インタビュー発言で幕を開けた(産経大阪本社社会部の橋下維新に対する取材意欲は高い)。松井氏は前回衆院選大阪都構想への協力約束の見返りに公明党選挙協力したにもかかわらず、約束を反故にされたので「このまま泣き寝入りするわけにはいかない」と述べ出馬を匂わせたのである。これに呼応して翌日から橋下氏も加わり、「やられたらやりかえす」との大合唱が始まった。これはもう品の悪い「ラプソディー」(狂詩曲)そのものではないか。

 その後、産経は突っ走る。「衆院選 都構想めぐり公明牽制」「橋下・松井氏 出馬検討、泣き寝入りできぬ」(11月12日)、「橋下氏『出馬』におわせ」「維新、民主との協力見送り」「維新の党・松井幹事長インタビュー、大阪16区『やりたい気持ち満々』」(11月14日)、「迫る解散、橋下氏出馬!? ざわつく大阪」「標的の公明 現職議員『受けて立つ』」「維新も賛否 『投げ出し』批判を懸念」(11月17日)、「維新vs公明 はや火花」「『橋下氏出馬』 みなぎる緊張感」(11月22日)と連日連打の記事で序盤戦をリードした。

 ところが11月20日頃から出馬説への疑問が出始め、毎日新聞はじめその他各紙から「本当に出るの?」とのニュースが流れ始めた。その代表的な記事が毎日新聞の「大阪都構想へ公明と対決――知事・市長出馬検討、戸惑う市民」(11月20日)だろう。「本当に出るの? 市長も知事も?」で始まるこの記事は、「大阪都構想を巡る対立の果てに、維新の党共同代表の橋下大阪市長は『公明の議席を奪うしかない』と、今回の衆院選への出馬を検討している」ことを紹介した上で、「選挙の構図が突然大きく変わる選挙区の有権者からは『選択肢が増える』と歓迎の声が上がる一方、『なぜここで』と戸惑いの声も多く聞かれる」との空気を伝えた。

 また11月20日、橋下氏が市役所で記者団に語った言葉も出馬への疑問を一層広げた。「橋下市長 出馬でも記者会見せず、最終判断は街頭で表明」(読売新聞、11月21日)と題するこの記事は、「市長職を投げ出す場合には会見で理由を説明すべきではないか」との声が上がったが、橋下氏は『僕の判断。質問があるならタウンミーティングでしたらいい』と突っぱねた。(略)橋下氏は最終判断のタイミングについて『準備が間に合うまでに決める。期限を切る必要がない』として明言を避けた」と紹介し、記者団の中に強い疑問が広がったことを伝えている。

 そして11月24日、25日の各紙が一斉に伝えたのは、橋下・松井両氏の出馬断念ニュースだった。「橋下・松井氏不出馬、公明揺さぶり不発」「『チキンレース』10日で幕」「『騒ぐだけ』『残念』街の声」(毎日、24日)、「『投げ出し』批判回避、橋下・松井氏 身内からも反発」「橋下氏、苦肉の地元回帰」(朝日、24日、25日)、「橋下氏・松井氏 衆院選出馬せず、都構想の頓挫を危惧」「統一地方選で勝負」(日経、24日)などなど冷ややかな報道が目立った。また赤旗は、「橋下・松井両氏が総選挙出馬断念、『維新政治』の行き詰まり示す」との大阪府委員長の談話を掲載し、「橋下市長と松井知事は、党利党略の駆け引きに明け暮れた挙句、総選挙への出馬を断念することを表明しました。これは大阪府・市政における『維新政治』の破綻に加え、国政上も彼らが影響力を行使できなくなっているという二重の行き詰まりを示すものです」(25日)との見解を表明した。

 私がこれらの記事を通して強く感じることは、いよいよ橋下維新の「フィナーレ」(終楽章)が近づいたということだ。彼らがどう足掻こうとも不時着の地点はもうそこに見えている。マスメディアが両氏の出馬断念の裏に嗅ぎ取ったのはその匂いだった。次回は「レクエイム」(葬送曲)の調べがどこから聞こえてくるのか、そのことについて話そう。(つづく)