新国立競技場設計計画承認の裏に「巨大利権」が隠されていないか、安保法案強行採決と新国立競技場建設強行は安倍内閣をして退陣に導くだろう、大阪都構想住民投票後の政治情勢について(6)、橋下維新の策略と手法を考える(その44)

 最近、どの新聞を見ても安倍政権の独裁・独走ぶりを批判する記事や論説で溢れ返っている。安保法案に関する安倍政権の国会運営はもはや「独裁極まれり!」と言うほかはないが、これに加えて国民の憤激を買っているのが新国立競技場設計計画の承認(決定)だろう。安保法案では態度が分かれているマスメディアの世界でも、こと新国立競技場の設計計画に対して「総スカン」状態だ。安倍内閣の広報紙・読売新聞や財界の機関紙・日本経済新聞までが社説でコテパンに批判するのだから事態は只事ではない。この間の各紙社説を並べて見よう(漏れがあるかもしれない)。

【朝日社説】
〇2015年5月22日、「国立競技場 甘すぎた構想、猛省を」
〇6月29日、「新国立競技場 新たな選択肢で出直せ」
〇7月2日、「新国立競技場 公共事業としては失敗だ」
〇7月6日、「新国立競技場 見切り発車は禍根残す」
〇7月8日、「新国立競技場 これでは祝福できない」

【日経社説】
〇5月26日、「目にあまる新競技場の迷走」
〇6月27日、「納得しがたい新競技場の工費」
〇7月10日、「この新国立競技場を未来に引き渡せるか」

【毎日社説】
〇7月8日、「新国立競技場 無謀な国家プロジェクト」

【読売社説】
〇7月9日、「新国立競技場 代償伴う愚かで無責任な決定」

 各紙社説の内容が驚くほど共通しているのも今回の新国立競技場建設問題の特徴だ。ここでは読売(9日)と日経(10日)の両社説を代表して紹介しよう。まず両社説の出だしが強烈だ。要するに、当該建設計画を「愚か」「無責任」「無謀」「暴走」と口を極めて糾弾している。両紙のこれほど激しい安倍内閣批判はこれまで見たことがない。
「財源のメドすら立たないまま建設へと突き進む。あまりも愚かで無責任な判断である」(読売)。
「これほど無謀な国家プロジェクトがいっさいの見直しもなく進行する事態にあぜんとするばかりだ。2020年東京五輪パラリンピックに向けた新国立競技場建設計画の暴走である」(日経)。

 両紙が糾弾する最大の理由は、世界のスタジウム建設事業のなかでも突出して高い2520億円(4〜5倍)にも上る巨額の工事費だ。しかも追加工事費を含めると3000億円に達し、完成後の管理費まで含めると「途方もない額」になるというのである。工事費膨張の原因が巨大な2本のアーチ(キールアーチ)を用いた設計案にあることは言うまでもないが、なぜそれを「見直さないのか」と根本的な疑問を呈する。
 「工費膨張の最大の要因が巨大な2本の巨大なアーチを用いた特殊な構造にあることははっきりしている。なぜ、コスト削減のために基本構造を見直さなかったのか。いったん決まったら、止まらない公共事業の典型といえよう」(読売)。
「整備費膨張の要因はイラク出身の建築家、ザハ・ハディド氏のデザインに固執したからだ。巨大な『キールアーチ』などを疑問視する声は強く、工費や工期を大幅に短縮できる設計への変更を具体的に提案する専門家もいた。しかし文科省もJSCもそうした意見をまともに検討せず、ザハ案ありきで突き進んだ。建築家の安藤忠雄氏はザハ案選定に深くかかわったが、工事計画を了承した先日のJSC有識者会議に姿も見せていない」(日経)。

新国立競技場建設の最終責任が誰にあるのかということも大問題だと両紙で指摘されている。もちろん関係者の1人である下村文科相や遠藤五輪相は安倍内閣の閣僚だから任命権者である安倍首相に最終責任があることはいうまでもないが、森元首相や舛添都知事なども絡んでいるので話しはややこしくなる。
「工費や工期、工法を巡る迷走について、下村文部科学相は『責任者がはっきりわからないまま、来てしまったのではないか』ととぼけている。JSCを所管する文科相こそが責任者だろう」(読売)。
「この計画にわたしたちはかねて異論を唱えてきたが、なお再検討の決断を求めたい。下村博文文部科学相はもちろん、専任の五輪担当相になった遠藤利明氏もせっかくの職責を果たすべきだ」(日経)。

私はこれでも一応建築屋の端くれなので、業界のことはそれなりに耳には言ってくる。ちなみに新国立競技場のような巨大な国家プロジェクトは俗に「政治銘柄」と呼ばれ、事業内容や規模は建築専門家が決めるのでもなければ担当官僚が決めるのでもなく、最終的には政治家(それも大物)が采配を振るうことになっている(そうだ)。つまり表にはなかなか出てこないが、そこには政治家(群)とゼネコンとの間で工事を巡っての巨大な利権の政治取引があり、そこでの政治決着を通して建設計画が決定されるというのである。

しかし「随意契約」や「指名入札」は利権に結びつくとして禁じられているので、設計計画案は「公募」されて「公開審査」にかけられ、1等当選案が事業計画案として決定されることになるが、この場合に決定的に重要なのは「公募条件」(設計条件)の内容と審査委員長の人選だといわれる。新国立競技場の公募条件は、東京五輪パラリンピック組織委員会委員長の森元首相の持論、「経済大国日本での2度目の夏季五輪にはふさわしいものが必要。国立競技場は、スポーツを大事にする日本という国を象徴する建物である必要がある。3、4千億円かかっても立派なものを造る。それだけのプライドが日本にあっていい」(朝日新聞、2015年6月9日)という線で決まったと考えて良いし、その意を受けて安藤忠雄氏が審査委員長に選ばれたのだろう。こうして「大規模でとてつもなく金のかかる国立競技場」の設計案が登場したのである。

安藤氏はこれまで「スター建築家」として持て囃されることはあっても、政治的人脈で仕事を獲得する建築設計事務所経営者としての「経営手腕」を評価されることはなかった。マスメディアの世界に登場する「スター建築家」は理想を追い求める偶像として美化され、安藤氏の場合はとりわけ「独学の建築家」として「今太閤」ばりの人気を享受してきたのである。しかし、新国立競技場問題がこれだけ政治問題、社会問題になっても、彼は一切の取材を拒否し、槙文彦氏ら良心的建築家の計画変更提案についてもなんら発言しない(できない)。新国立競技場の公開コンペを政治的決定ではなく、純粋に「建築デザイン」の面から(コストも含めて)決定したと言えないからではないか。

世論追求に耐えかねたのか、下村文科相は自らの責任を回避するためか、今頃になってデザインの採用を決めた審査委員会で委員長を務めた建築家の安藤忠雄氏について「デザインを選ぶ責任者だった。堂々と自信を持って、なぜ(イラク出身の建築家)ザハ・ハディド氏の案を選んだのか発言してもらいたい」(日経、7月10日夕刊)と話したとされる。安藤氏は事業主体である日本スポーツ振興センター(JSC)の7日の有識者会議を欠席したと言うが、下村文科相の意図は別にして、このままでは建築家としての社会的責任は免れないというべきだろう。

日経社説は、「このプロジェクトに関係する人たちに、そんな世論は聞こえないのだろうか。危惧すべきは新競技場そのものの問題だけではない。こういう感覚でものごとを進めていく無責任体質が、いま日本をむしんばんでいることが恐ろしい」と結んでいる。新国立競技場問題は、いまや安保法案と並ぶ安倍政権最大の政治課題となった。両課題とも「廃案」あるいは「出直し」が必至となったが、それでも安倍首相は「決めるべきときには決める」として強行突破するつもりだろうか。(つづく)