議会制民主主義ならぬ「議会制独裁主義」が日本を支配しようとしている、安倍政権・橋下大阪市長と読売・産経両紙がコラボして推進する「議会制独裁主義=新たなファッショ的潮流」に対する国民的反撃が必要だ、大阪都構想住民投票後の新しい政治情勢について(4)、橋下維新の策略と手法を考える(その58)

 如何なる国民世論にも耳を傾けず、如何なる国会審議にもまともに答えず、ただ議会多数の「数の力」だけでひたすら安保法案の成立を目指す安倍内閣とはいったい如何なる政権なのか。また選挙で当選さえすれば、如何なる政策の失敗も反省せず、議会での審議を拒否して専決処分を繰り返し、一切の民意を無視して市政を私物化する橋下市長とはいったい如何なる人物なのか。そして8月30日の歴史的な国会包囲デモを敵視し、安倍政権の安保法案成立と改憲策動を助け、沖縄米軍辺野古基地建設や原発再稼動など反国民的課題の実現を社是に掲げる読売・産経両紙(系列テレビも含めて)とはいったい如何なるメディアなのか。

 私は、これら安倍・橋下・読売・産経の「右翼4派連合」が推進する現在の政治体制を議会制民主主義ならぬ「議会制独裁主義」と名づけ、わが国の戦後体制すなわち憲法体制を根幹から破壊しようとする「新たなファッショ的潮流」だと理解する。そしてこれに対抗する国民主体として、8月30日の国会包囲デモに象徴される国民大運動を「反ファッショ国民統一戦線」の萌芽形態と位置づけ、今後の政治闘争はこの2大潮流の対決として展開されると考える。また目下進行中の野党再編も大きくはこの対決構図の中に位置し、それから外れる潮流は容赦なく歴史の波間に消えていくと思う。

 それでは、「議会制独裁主義」とは如何なる政治体制なのか。総じて言えば、それは議会制を表向き民主的な制度として維持しながら、いったん多数勢力を確保すれば「数の力」で議会を一手に掌握し、国民世論や市民要求を翼賛ジャーナリズム・メディアを使って操作しながら、独裁権力を行使する政治システムのことだ。この政治システムは、世界に進出する日本のグローバル資本にとってはどうしても必要な国内政治体制(支配体制)であり、とりわけ対外資本進出や軍事同盟強化の障害になる「戦後レジーム憲法9条体制」の一掃を使命としている。安倍・橋下・読売・産経の「右翼4派連合」が目下、憲法9条を空文化する安保法案の成立に全力を挙げているのはこのためだ。

 8月30日の国会包囲デモに対する評価が、「議会制民主主義」を擁護するか、「議会制独裁主義」を推進するかを分ける歴史的分岐点になったことは、衆目が一致するところだろう。9月7日の毎日新聞オピニオン欄は、この問題を「『最大デモ』の扱い各紙で割れる、安保関連法案反対運動」との大見出しで取り上げ、「8月30日の安全保障関連法案に反対する最大規模のデモについて、新聞の論調は大きく分かれた。全国紙の翌31日朝刊(東京本社発行最終版)は毎日新聞朝日新聞が1面と社会面で大きく取り扱ったのに対し、読売新聞、日本経済新聞産経新聞は社会面にとどめた。地方紙は、戦争被害が大きかった地域や自衛隊駐屯地のある地域を中心に少なくとも20社が1面トップとした。テレビはニュースだけでなく、情報番組やバラエティー番組でも取り上げた」とリードで解説している。

 このオピニオン欄にコメントを寄せたメディア研究者は、「いずれにせよ、同じ事象でこれだけ論調に差が出ては、読んでいる新聞によって国民の社会意識に分断が生じ、議論が成り立たない国にならないだろうか。新聞の在り方をもう一度考えてみる時かもしれない」と(きわめて)控えめな論評をしているが、事態はもはやその域を遥かに超えていると言わなければならない。読売・産経両紙が(系列テレビを含めて)「右翼4派連合」の一翼として国民世論を系統的に操作してきている事態を直視し、それに対する国民的反撃を組織することが喫緊の課題に浮上しているのである。
 
 たとえば、9月3日の産経新聞コラム「阿比留瑠比の極言御免」などを読めば、その言説がもはやジャーナリズムの一線を越えているのがよくわかる。同氏は「論説委員兼政治部編集委員」の肩書きで書いているのだから、社を代表しての見解だと解釈して間違いないと思うが、これがまた何とも凄まじい論説なのだから恐れ入る。タイトルは「国会前デモ礼賛者らの異様さ」というもので、そのなかの一節を紹介して読者の参考に供したい。
 「8月30日に国会周辺で行われた安全保障関連法案に反対するデモの参加者の演説と、それに対する一部のメディアの過剰な反応がさっぱり分からない。主催者発表では約12万人だが、産経新聞の試算では3万2千人程度の参加者にとどまるこのデモが、どうしてそんなに重視されるのか。(略)もちろん、憲法は集会や表現の自由を保障しているし、デモが意見表明や対象に圧力をかける手段であることも分かる。とはいえ、チベットウイグルで反中国政府のデモをするのとは異なり、弾圧も粛清も絶対にされない環境でデモをすることが、そんなにもてはやすべきことなのか」
 「31日付けの朝日の1面コラム『天声人語』は、憲法学者樋口陽一氏の『一人ひとりが自分の考えで連帯する、まさに現憲法がうたう個人の尊厳のありようです。憲法が身についている』との言葉を引き、こう締めくくっていた。『民衆の力の見せどころが続く』。安保関連法案に自分の考えで賛成している国民は、まったく眼中にないようだ。デモに参加しないという圧倒的多数派の沈黙の意思表示は、朝日にとっては民意に値しないのだろう。さらに7月12日同コラムは、哲学者の柄谷行人氏の次の言葉を引用していた。『人々が主権者である社会は、選挙によってではなく、デモによってもたらされる』。つまるところ、朝日は憲法が要請する議会制民主主義を否定したいということだろうか」
 「救いは、橋下大阪市長が31日付けのツイッターで『デモで国家の意思が決定されるのは絶対に駄目だ』『たったあれだけの人数で国家の意思が決定されるなんて民主主義の否定だ』と書いていたことだ。当たり前のことが新鮮に感じた」

 阿比留瑠比氏の「極言」はまさに「議会制独裁主義」を推進する産経紙のコラムニスト(イデオローグ)にふさわしいものだが、その内容は「極言=暴言」としか言いようのない低レベルかつ乱暴きわまるものだ。以下、同氏の言わんとするところを解説しよう。

 第1は、安保法案に反対する国会前デモがどのような主張のもとに行われているか、その趣旨や中身に一切触れずにデモ参加者の「数」だけを取り上げ、主催者発表と警察情報の数字の違いをことさら強調してデモの政治的影響力を矮小化していることだ。産経紙のデモ参加者数の「試算」は国会前の道路に限られ、日比谷公園はもとより国会周辺一帯に広がった人数を無視している。本当に正確な参加者数を知りたいのであれば、自社ヘリを飛ばして一人ひとりカウントしてはどうか。

 第2は、安保法案に関する安倍首相や関係閣僚の国会答弁の中身(ごまかし、すり替え、言い直し、不統一発言など)に何一つ触れず、また世論調査における圧倒的な「安保法案反対」の声を無視している安倍政権の国会運営を何ら問題にしないで、これに抗議するデモがあたかも議会制民主主義に対立しているかのように描いていることだ。読売・産経両紙の世論調査においても安倍内閣「不支持」が「支持」を上回り、安保法案を今国会で成立させることに「反対」が多数であることは明らかではないか。

 第3に、デモに参加しないことは、「デモに参加しないと言う圧倒的多数派の沈黙の意思表示」などと勝手に解釈して、デモ参加者と参加していない国民を意図的に分断し、「物言わぬ民衆=サイレンと・マジョリティ」があたかも国民多数の「民意」であるかのようにすりかえていることだ。これは60年安保闘争の国会包囲デモに対して岸首相が発した当時の発言と全く同じ内容であり、産経コラムニストが半世紀経ってもいっこうに進化していないことを示している。

 第4は、あろうことか、稀代のデマゴーグである橋下大阪市長ツイッターを「救い」として引用し、憲法で保障された集会や表現の自由の一つであるデモを「民主主義の否定」であるかのように印象付けていることだ。橋下氏は街頭演説で聴衆を沸かせ、「ふわっ」とした民意で選挙に勝利してきたことで知られる。橋下氏にとっての民意は漠然とした空気のようなものであればよいが、それが「安保法案反対」「安倍内閣退陣」といった明確な目標を持ったデモに変わるときは、「民主主義を否定」するものとなるのだろう。

 だが私は、阿比留瑠比氏がコラムの結びを橋下氏のツイッターに「救い」を求めたところに、彼らが如何に追い詰められているかを読み取ることができる。同時に、これら右翼メディアはもはやジャーナリズムの名前に値しないことも明らかになったと思う。私自身は今日限りコンビニで読売・産経紙を買うことも止めるが(もっとも研究には必要なので図書館の新聞コーナーでは見る)、もうそろそろ両紙の不買運動をスタートしてもよいと思うがどうか。読者氏のご意見を伺いたい。(つづく)