暴言三、四羽烏の末路、(福田辞任解散劇、その6)

 いつの世にも暴言を繰り返す類の人物には事欠かないものだが、最近のその種の暴言には、「失言」ではなくて「確信犯」的なものがやたら多い。「暴言三羽烏」いや「四羽烏」とでも名付けて、最近の目立つ人物はというと、少し古いところでは石原東京都知事、直近では太田前農水大臣と中山前国土交通大臣、そして「現役」はいうまでもなく橋下大阪府知事といったところだろう。

 石原都知事のこれまでの「暴言集」には、それこそ目を背けたくなるような人種差別、女性差別、弱者差別にかかわる字句が満載されている。しかしそれでいて都知事の座を追われることがないのだから、マスメディアも東京都民も意外に寛容な精神の持主が多いとみえる。

 太田氏の場合は、福田自公政権の末期的状況を象徴するような暴言の連続で、国民生活の基本中の基本である「食の安全」に関して、まるで「他人ごと」のような無責任な発言と態度をとったことが辞任の引き金になった。「この首相にしてこの大臣」という観点から見れば、太田氏は、福田前首相の「他人ごと無責任内閣」に最もふさわしい人物だったのである。

 中山氏の場合も麻生内閣の発足直後ということもあって、さすがに「御祝儀相場」ともいえるマスメディアの集中砲火を浴びざるを得なかった。加えて二度三度、執拗に日教組攻撃を繰り返す有様が増幅されに及んで、「好戦的な国粋主義者」とニューヨークタイムス社説で批判された麻生首相とのイメージが重なることを恐れた勢力が、「辞任」という形で更迭に動かざる得なかったのである。内閣発足直後の「御祝儀相場」が、中山暴言の追求に拍車をかけたのは皮肉という他はない。

 一方、石原都知事に「全てを教える」と約束された「現役」の橋下大阪府知事の方は、これまで言いたい放題の暴言を繰り返してきたにもかかわらず、不思議なことにそれがマスメディアで批判されるどころか、「過激発言」として「オモロイやないか!」との評判さえ呼ぶ有様だった。大阪府民の言語空間は一体どうなっているのか、と考えざるを得ないような事態が今日まで続いてきたのである。

 ところが、先月の9月7日のラジオ公開放送の席上、橋下氏が「クソ教育委員会」呼ばわりしたそのあたりから少しずつ風向きが変わりはじめ、昨日の広島地裁の有罪判決でその方向が決定的なものになったように思える。橋下氏がタレント弁護士の時代に、民放テレビで山口県光市の母子殺人事件に絡んで弁護士団への懲戒請求を煽動し、その発言(暴言)を契機に全国で8千件を超える大量の懲戒請求を受けた弁護団の損害賠償裁判で有罪判決が下り、損害賠償総額800万円が認められたのである。

 この判決は、橋下氏本人が自覚しているかどうかは別にして、知事の政治生命にもかかわる重大な影響と重みを持つものだ。後世の大阪府政史においては、広島地裁判決を分水嶺として橋下知事の凋落が始まり、遂には辞任に追い込まれることになったと記されることはまず間違いないだろう。民放テレビ発言(暴言)を切っ掛けにして一気に人気が上昇し、その勢いをかって知事に当選した橋下氏が、その暴言によって政治的に葬られることになれば、それはまさしく「歴史の審判」ともいえる快挙であろう。

 今朝10月3日の朝日新聞社説は、久方ぶりに社説らしい鋭い切れ味に富んだものだった。

「そもそも橋下氏は、みずから携わってきた弁護士の責任をわかっていないのではないか。弁護士は被告の利益や権利を守るのが仕事である。弁護団の方針が世間の常識にそぐわず、気に入らないからといって、懲戒請求をしようとあおるのは、弁護士のやることではない。」

 「橋下氏は判決後、弁護団に謝罪する一方で、控訴する意向を示した。判決を真剣に受け止めるならば、控訴しないだけでなく、弁護士の資格を返上してはどうか。謝罪が形ばかりのものとみられれば、知事としての資質にも疑問が投げかけるだろう。」

 この社説は、いま良識ある大阪府民の気持ちをそのまま代弁するものだ。すでに府議会においては、「職場でのビデオ隠し撮り」や「クソ教育委員会発言」に対する鋭い批判が始まっている。「口は禍の元」というが、「口でのし上がってきた」橋下氏が、それが元で葬られることになるのであれば、それはそれとして良識ある社会の審判だといえるのであろう。(続く)