阪神・淡路大震災ウィークを終わって、(閑話休題、その2)

 オバマ米大統領の就任式に関するニュースが、いま大洪水のように世界中に溢れ返っている。それだけのニュース価値がある超大イベントだから当然と言えば当然と言えようが、しかし率直に言って、今の私にはこの出来事を世界情勢の中でどのように位置付けていいのかまったく見当がつかない。素直に喜んでいいのか、それとも懐疑的な目で見た方がいいのか、それすらも判断がつかないのである。

 ブッシュ前大統領が「史上最悪・史上最低の大統領」として評価されることは、後世の歴史家ならずとも多くの人が即座に判断できるだろう。だが、オバマ大統領がブッシュの「負の遺産」はもとより、その発生源となっているアメリカの病根をどれだけ取り除けるかは「神のみぞ知る」だ。事実、就任式当日のニューヨーク株式市場は330ドルも下げて、ダウ平均は8千ドル台を割り込んでいる。国民の支持率80%という絶大な人気のある新大統領の就任式当日に、アメリカ市場は冷や水をかけるような判断を示しているのである。

 こんな状況をみるとき、麻生首相が「バラマキ給付金」程度の景気浮揚策で次の総選挙を迎えようとしていることが、どれだけ稚拙な対応であるかがわかるというものだ。何しろ麻生氏の支持率はわずか20%にすぎず、不支持率が80%とオバマ氏の場合とは逆転しているからだ。それでいて麻生氏のオバマ評は、「手法も発想も私と同じ」というのだから恐れ入る他はない。

 こんな嵐のような状況の中で、1週間前の阪神大震災関連行事のことを書くのはいささか気が引ける。しかし大切なことなので、遅ればせながらも「閑話休題、その2」として感じたことを述べたい。というのは、「震災ウィーク」ともいえる今年の様々な震災関連行事に関しては、今までと違った角度から事態を感じられるになったからである。

 これまでは震災の傷跡もまだ十分に癒えていないにもかかわらず、ふだんはそのことがニュースらしいニュースにもならないで、1月17日前後になると年中行事のごとく取り上げられることに私は大きな違和感を持っていた。しかし今年は違った。行事の趣旨が阪神の被災地の問題にとどまらず、その後(あるいはそれ以前に)連続して発生した日本各地の震災状況や復興状況について幅広く情報や経験を交流し、互いに視野を広げ励まし合うものに変わってきたからである。

 たとえば関西学院大学で開催された日本災害復興学会の被災地交流会の会場では、1993年7月に北海道の奥尻半島で大地震が発生した当時、まだ地元の中学生だった北大大学院生が発言して、阪神大震災を起点とする震災復興観を改め、広く日本の災害復興を考えるべきだと促した。また2008年9月に中国四川省で起こった四川大地震に関しては、様々な制約を乗り越えてボランティア支援をしている青年が、日本とは全く国情の異なる中国内陸部での想像を絶する復興対策の困難さを淡々と語った。

 しかし私の心に重く残ったのは、2008年6月の岩手・宮城内陸地震の被災地、栗原市栗駒の耕英地区の報告だった。宮城県内陸部の高原地帯にある耕英地区は、戦後に満洲から引き揚げてきた人たちが入植した開拓村で、被害程度は甚大で避難命令が出され、被災住民は現在もなお地元に帰ることが許されていない。この状況は、全島住民が島外に避難した東京都の三宅島噴火災害と同じであるが、戸数がそれほど多くなく、かつ東北の奥地であるためにマスメディアからもほとんど注目されず、いったいこの先どのようにして復興すればよいのかと、その深い苦悩が披瀝された。

 栗原市は、2005年4月に10カ町村が合併して生まれた面積805平方kmの広大な山間部の自治体である。かって耕英地区は栗駒町の1地区であり、旧役場はいまも栗駒支所として一応は残されている。しかし職員の大半は中央部の役場に集められ、市職員のほとんどは耕英地区の場所はおろか名前も知らないという。だから、災害が発生した場合の通常の態勢が整わず、しかも復興対策が被災住宅の補修や建て替えに限定されて、生業を維持していくための有効な支援対策が皆無に近い状態で放置されているのである。

 この状況は、疑いもなく平成大合併によって無理矢理につくられた広域自治体の矛盾を余すところなく体現しているといえる。住民の日常生活圏をはるかに超えた広域合併は日常生活上の不便は言うまでもないが、災害が発生すると致命的な困難な条件に転化する。地域に住み続けるための支援策が提供されず、といって地域を棄ててどこかへ移住する条件もないのである。

 加えて、地元の被災住民と支援ボランティアの人たちがこもごもに語ったことは、このような窮状を地元自治体に訴えることも、また災害復興の要求や運動を起こすことも、いずれもきわめて困難な政治事情にあるということだった。「ものを言うと唇が寒くなる」ような空気が地域には支配的であり、役所に対して復興支援を要求することは事実上不可能だということだった。

 そしてこのような空気は各地の被災地に共通するものと見え、被災地交流会の席上では、行政に要求したり、復興対策を政治問題化することに対しては極度に抑制的な議論が支配していた。司会をしていた中越大震災のボランティアは、善意からではあろうが、要求運動や政治運動は地域をとげとげしくするものであり、自分たちで励まし合って自助努力を重ねるような方向が「地域を温かくする」と表現していた。

 この事態はおそらくその通りなのであろう。自分たちの被災状況を明らかにして復興支援を要求することが、被災者の当然の権利になっていないのである。だからボランティアが美談になり、励まし合いが推奨されるのであろう。だがボランティアでことは片付くのか。被災地は復興できるのか。阪神大震災からの十数年の月日は、私たちにこのような疑問を一貫して投げ掛けてきた。そしてこの問題は、これからも次々に日本列島を襲う被災地での復興運動が背負う難題でもある。