竹中平蔵君、僕は間違えた、(閑話休題、その5)

 ふだん『文芸春秋』はあまり読まないが、しかし芥川賞受賞作品が掲載される特別号だけはほぼ毎年読んでいる。「小説音痴」の私にとって、目下注目されている作品を知る上での数少ない機会だからだ。今年も2009年3月特別号には、芥川賞受賞作品が全文掲載された。

 でも恥ずかしいことに、私の読み方はハンパで不真面目としかいいようのないものだ。文学作品についても流行歌と同様で、年末の紅白歌合戦を見ることで1年分のご無沙汰を済ませているのと同じような程度のものなのだ。紅白番組ではカタカナまじりのグル−プに呆気にとられているうちに時間の大半が過ぎていくのだが、芥川賞受賞作品についても大体そんなところだ。

 その程度のことだから、文学作品の価値などわかるはずもないのだが、でも選考委員会の各作家の選評を読んでいると、なんだか世相の一端が見えてくるようで面白い。文学作品としてよりも現在の社会状況を作家がどう切り取っているのか、どう反映しているのかというところに、私の興味があるからだ。実際、目次にも「派遣世代の新しい文学の誕生!、29歳大卒、工場勤務、手取りは13万8千円、それでも明日はやってくる―」と大きく見出しが付けられていて、「派遣世代」なんていう造語がはや登場してきていることに驚いている有様だ。

 今年の受賞作、津村記久子さんの『ポトスライムの舟』は、29歳の契約社員である独身女性の日頃の生活を、大学時代の3人の女友達との交流を通して、それぞれの生き方とかかわらせながら淡々と描いたもので、奇をてらったテーマでもないし、予想を超えたストーリーの展開もないごく普通の自然態の作品だ。でも小説の舞台が私の故郷の奈良を中心に展開されているし、それに登場人物の会話が関西弁であることもあって、なんだか自分自身が登場人物の一員になったような気分で奈良公園を動き回ったり、大阪や神戸に行ったりして、作品の意のままに動かされた。不思議な気持ちと言うほかはない。

 だが今日書きたいことは、他にある。それは同誌に掲載されている表題の「竹中平蔵君、僕は間違えた」という中谷巌氏の目立たない論考についてである。中谷氏といえば、知る人ぞ知る日本の代表的な「構造改革の旗手」である。正確にいえば「旗手であった」。本人の筆を借りれば、「今から約十年前の98年、いわゆる『構造改革論議』華やかなりし時、私は『構造改革論者』の急先鋒として小淵恵三内閣の諮問機関『経済戦略会議』に議長代理として参加していた」という人物である。その人が、編集部が「構造改革の旗手による『転向』と『懺悔』の記」という副題をつけた論文を公表したのだから、驚くほかはない。

 中谷氏は、ハーバード大学に留学して近代経済学を研究し、「市場原理主義と『小さな政府』を掲げる新自由主義の信奉者になった」という経歴の持主で、経済戦略会議では「市場に関するあらゆる規制は撤廃すべきであり、自由な市場の下でこそ、グローバル経済に対応できる」という考えに基づいた提言、『日本経済再生への戦略』(99年2月)を答申としてまとめた。その張本人の中谷氏が、同じく経済戦略会議のメンバーであり、後に小泉政権で経済財政政策担当大臣になった竹中平蔵氏に対して、「竹中平蔵君、僕は間違えた」とのメッセージを送ることになったのである。

 論文は、『日本経済再生への戦略』の3つの提言の「労働市場の流動化」、「民営化・自由化による『小さな政府』」、「グローバル経済への対応」について、それぞれがどんな問題点を含んでいたのかを自己批判的に分析したもので、結論として「私はこの十年、日本社会の劣化を招いた最大の元凶は、経済グローバリズムの跋扈にあったと考える。そしてそれを是認し、後押しした責任は、小泉改革に代表される一連の『改革』にある」と断言している。そしてこのような誤りを犯した最大の原因が、改革が「社会へのまなざし」に欠けていたことを痛切に自己批判している。

 たとえば、「社会の価値がマネー一色に染められていくことがこれほど危険なこととは思わなかった。財政難を理由に、医師不足を放置したことによる医療崩壊、消費者の安全さえも犠牲にして利益を追求した食品偽造、人とのつながりの欠如を感じさせる犯罪も目につくようになった」、「あるべき社会とは何かという問いに答えることなく、すべてを市場まかせにしてきた『改革』のツケが、経済のみならず、社会の荒廃をも招いてしまった。それがこの十年の日本の姿である」といった一節がそれである。

 今月号の文春には、この他にもなかなか面白い論文が沢山ある。大蔵官僚出身の経済学者・野口悠紀雄氏は、『GDP10%減、大津波が来る』という論文の中で、「日本は対米輸出を維持し、拡大を続けるために、極端な低金利政策と円安誘導を続けた、ということができるだろう。これが、小泉政権の経済政策の本質だった。『構造改革』の看板を掲げた小泉政権だったが、その経済政策を検討すると、その実態は、構造改革とはまるで反対の、既存の輸出産業を温存するための政策であり、輸出バブル促進政策だったといえる」と、国民生活と内需産業を犠牲にしてきた小泉構造改革の本質を鋭く指摘している。

 文春に代表される右派ジャーナーリズムの論調が一挙に変わるとは思われないが、しかし商業ジャーナリズムは、所詮、読者のニーズを無視して生き残ることはできない。対米一辺倒の政治や経済政策の破綻が否応なく現実問題として国民生活の貧困と格差として現われている以上、もはや新自由主義イデオロギー的粉飾で事態を誤魔化したり回避できなくなってきた。こんな矛盾の激化が中谷氏や野口氏の主張として浮上してきたということではなかろうか。

 しかし中谷氏が「竹中平蔵君、僕は間違えた」といっても、「蛙の面になんとか」の竹中氏には「そんなの関係ねーよ」といった反応しか期待できないだろう。一方、「小泉純一郎君、僕は間違えた」と明言できない麻生首相は、郵政民営化を否定したり、肯定したりして相変わらず迷走を続けている。それどころか「かんぽの宿」の払い下げ問題で小泉改革の闇の世界が暴露されそうになってくると、今度はバラマキ給付金の衆院再可決時の「造反」をほのめかして逆に恫喝されている有様だ。麻生首相を辞職に追い込んで郵政民営化の闇の世界に蓋をする策動が激しさを増している。次回からは、再び「麻生辞任解散劇」の話題に戻りたい。