自民党総裁選挙迷走劇の本質は政策難、(麻生辞任解散劇、その29)

 いまマスメディア空間は、16日の国会首班指名を直前にして「鳩山一色」で塗りつぶされている。政権交代が実現して新しい内閣が誕生するのだから、世間の注目が集まるのは当然だ。新聞辞令では、京都からも少なくない民主党議員の名前が取りざたされている。彼らの内情を知る者にとっては決して手放しで同調するわけにはいかないが、時の勢いとは恐ろしいもので、民主党の「政権担当能力」を持ち上げる記事が増えてきているのである。

 それに比べて哀れなのは自民党だ。「驕れるもの久しからず」の言葉通り、今頃になって権力の座から滑り落ちた悲哀を噛みしめているところだろう(と思いたい)。だが、「ポスト麻生」の総裁選の行方を見ていると、今更のごとくこの党が陥っている矛盾の深刻さを感じずにはいられない。いったい何が彼らをかくも迷走させるのか。

 主たる原因は「人材難」というのが通り相場で、私が「衆愚連」とネーミングした元首相たちは、その象徴ともいうべき存在だ。政治には政治家の「人となり」に現われるので、最後の自民党首相である麻生氏をはじめ、国民の目にさらされる歴代首相の資質がこの政党を「ダメ評価」する決定的なカードになったことは間違いない。

 だが自民党の矛盾の本質は、この政党がどんな政策を打ち出すのかをめぐって混迷を深めているという「政策難」にあるのであって、単なる「人材難」だけではない。政党は政策を基礎に組織される政治集団だから、政策がまとまらなければ政党を存続させることができないのであり、自民党が総裁選をめぐって右往左往しているのは、政党(野党)としての「政策」が決まらないからである。

 致命的なのは、「小泉構造改革」が自民党の敗因だとわかっていながら、これが「間違いだった」と総括できる人材がいないことだろう。小泉チルドレンが総崩れになったのは当然としても、小泉選挙によって得られた絶対多数の議席を利用して悪政をほしいままにしてきた元凶たちが、いまだに口を拭って様子見をしている様は、もはや「混迷」を通り越して醜悪という他はない。

 そんななかで「中堅・若手」と称するグループが「世代交代」を叫んで息巻いている。たとえばマスメディアに露出度が高い河野太郎氏は、民主党を「バラマキの大きな政府」だと批判して、自民党は「経済成長を旨とする小さい政府」として再生させるべきだと主張している。これなど小泉構造改革を推進してきた「上げ潮派」の主張と瓜二つだが、その政策が原因で自民党が大敗したという自覚がまるで見られない。

 一方、昨日になって京都選出の谷垣禎一氏が「総裁選の捨石」になる覚悟で出馬すると表明した。「捨石」になるという覚悟のほどはいいにしても、「どんな政策」を掲げて出馬するのかという肝心要の部分が伝わってこない。記者が報じていないのではなく、本人が「政策抜き」で出馬表明をしたというのが実態なのだろう。これでは政治家の名が泣くというものだ。

 若手・中堅の河野氏も、派閥幹部の谷垣氏も、彼らが富裕層を代表する典型的な世襲議員であることが、国民のニーズを感じ取れる政治家に成長させることを妨げている。河野氏の選挙地盤は東京の富裕層が多い湘南地方であり、それゆえに河野氏小選挙区で当選したことはその限りで理解できるが、彼の主張が疲弊に喘ぐ地方の選挙区ではとても通用するとは思えない。つまり「国民政党」としての自民党の政策としては、およそ「話にならない」代物なのである。

 谷垣氏の場合はもっと深刻だ。彼の選挙地盤である京都の丹後半島一帯は、いまや地域経済の疲弊と激しい人口減少・高齢化が日に日に進行している「激甚過疎地域」である。いままでは土木公共事業のばらまきで何とか政治基盤を維持してきたのだが、小泉構造改革でそれも不可能になった。地域経済を立て直す本格的な農林漁業政策を持たない自民党では、もはや回復不可能な中山間地域なのである。

 そんな地域を選挙地盤にする谷垣氏が、自民党総裁選挙に立候補するにあたって農業政策を語れない、あるいは過疎地域を立て直す地域政策を掲げられないのでは、「国民政党」としての自民党に未来がないのは誰でもわかる話である。東京生まれで東京育ちの谷垣氏が過疎地域の再生を語れないのは当然だとしても、そんな人物が父親の地盤を引き継いで「地方選出の代議士」として通用してきたところに根本的な問題がある。自民党が陥っている現在の深刻な事態は、人材難と政策難を串刺しにする国民から遊離した政党体質にあるというべきなのである。

 おそらく自民党は、地方に生まれ地方に生きる人材を持たない限り政党としては生き残れないだろう。そして「A級戦犯」といわれる現在の派閥幹部や古参議員が一掃されない限り再生の道は容易ではないというべきだろう。しかしそこに到達するまでにどれだけの時間がかかることか。

 また「世代交代」は、単なる身体の若返りレベルの話でないことも銘記すべきだ。「世代交代」は「政策転換」を伴わなければ意味がない。身体が動物的に若返っても、政策や考え方が昔のままでは「政策転換」は望めない。自民党の不幸は、「世代交代」を叫ぶ若手・中堅が依然として「昔のままで出ています」ことだろう。自民党の再生の道は、果てしなく遠い。