橋下の挫折、小沢の居直り、(麻生辞任解散劇、その6)

 昨日は日本がWBCに勝って日本中が大いに沸いたが、そうでなければマスメディアのトップニュースになるような政治的大事件が2件も相次いだ日だった。ひとつは大阪府庁のWTC移転条例案と移転予算案の否決、もうひとつは小沢公設秘書の起訴である。

 今日の新聞各紙の報道をみると、前者は「橋下府政の完敗」、後者は「小沢民主党の居直り」と結果は分かれているものの、本質的にはどちらも「挫折」したことに変わりはない。橋下氏は「ノーサイド」などと言って事態の本質を誤魔化しているが、暴走府政が一頓挫に見舞われたことは明白だ。その一方、小沢氏の居直りの方は世論から総スカンを食っている。

 「ノーサイド」というのはラグビー用語だ。試合中は敵味方のサイド(陣営)に分かれて戦うが、終了後は敵味方の関係を引きずらないという意味である。つまり試合後は両サイドの敵対関係がなくなるので「ノーサイド」という。互いの健闘をたたえ合うスポーツマンシップを象徴する潔い言葉なのだ。それを高校時代にちょっとラグビーをやった程度の人物が、自分の政治的失態を隠すために使うのだから、多くのラガーは「許せない!」と思っているはずだ。

 3分の2の議決を要する大阪府庁移転案件を、わずか半年程度の「思い付き」で提案すること自体尋常でないが、それを「スピード感のある行政」だと錯覚しているところに橋下氏の致命的な欠陥がある。つまり「暴走族」が公道を猛烈なスピード違反で走りまわりながら、それが「カッコイイ!」と思っている程度の幼稚で粗雑な府政運営なのである。

 府県制は、1890年(明治23年)の制定以来120年の歴史を持つ広域自治体である。戦後は、知事公選制を規定した1947年(昭和22年)の地方自治法成立によって現行の都道府県制に移行した。民主的な広域自治体として生まれ変わってからでも、すでに60年有余の歴史を有している。それをいくら関西財界や堺谷太一氏にそそのかされたからといって、半年で「関西州の州都」を掲げて府庁移転を強行しようというのだから、さすがの与党会派の府会議員たちも付いていけなかったのだろう。

 今回の府庁移転案の否決は、「橋下暴走府政の終わりの始まり」になることは間違いない。違う表現でいえば、「命取り」になることは必定だ。何しろ3分の2の賛成票を必要とする案件が、反対65、賛成46の圧倒的多数の反対で否決されたのである。この数字の意味するものは大きい。かねがね「8割の府民の支持」を公言する橋下氏が、わずか「4割の議会の支持」しか得られなかったからだ。

 本人は否決後に「完全燃焼で悔いはない」と語ったというが、遠からず彼の「完全燃焼」は「バーンアウト」(燃え尽き)に転化するだろう。また府議会も府民も橋下氏の「拙速」ならぬ「暴走」の危険性に気付くのではないか。すでに与党会派内でも不協和音が高まっている。選挙協力の「餌」と引き換えに橋下氏に同調してきた自民・公明府議のなかから、彼と行動を共にすることの懸念が高まっている。暴走車に同乗して「振り落とされる」事態に危惧を感じ始めているのである。(ここまで3月25日記)

 一方の小沢氏についてはどうか。テレビで記者会見の模様を見たが、自民党の胡散臭い土建派議員そのものの雰囲気だった。かっての配下であった二階氏の雰囲気や言動と驚くほどよく似ている。両氏ともいろんな政党を渡り歩いたが、その中身は全く変わっていなかったのだ。ただ表向き自民党民主党に分かれているだけである。

 小沢氏が落涙したのを見て、気弱になっているとか、権力に執着していないとか、いろんな論評がある。だがキチンとした説明ができないときに、涙を流したり哀願したりして人の同情を買おうとするのは、老獪な政治家の常套手段だ。小沢氏が続投する理由として挙げたのが、「支持者のみなさまの温かい激励」だったのは、なによりもそのことをあらわしている。

 小沢氏の目論見はこうだったのだろう。まず秘書の逮捕・起訴理由を政治資金の出納簿の形式的な書き違え程度の「微罪」であることを強調する。収賄罪で起訴されなければ、「まあ大したことはない」という感覚なのだ。その上で「官僚政治を打破して、議会制民主主義を確立するために、政権交代のために頑張る」という大義名分を振りかざす。これで世論が沈静化すれば、次期総選挙の指揮を取るというものだ。

 彼の潔白さなど誰一人信じていないにもかかわらず、民主党が党として小沢氏の続投を認めたのは、ただただ「政権交代」のチャンスを逃がしたくないからだ。とにかく次の総選挙で「勝てばよい」のだから、その場合の小沢氏の選挙戦術や手練手管が役に立つと多くの議員が考えたに違いない。だが一夜明けてから朝刊各紙の論調を見て、やはり「これはまずい」と思ったのか、「小沢降ろし」がおそるおそる始まった。これが政党としての大義名分や自浄努力よりも、政党支持率ばかりを見て判断する「風見鶏政党」の行動原理なのだろう。

 興味深いのは、小沢氏が秘書の逮捕・起訴を政治資金規正法に関する検察との「見解の相違」に基づくものものと言っているのに対して、検察側は、「政治とカネ」の関係を監視する政治資金規正法は「議会制民主主義の根幹をなすべき法律」であり、政治収支報告書の虚偽記載は「国民を欺いてその政治的判断をゆがめる」ものと断じている点である。「禁固5年以下」という量刑が規制法のなかで最も重いのも、そのためだ。議会制民主主義の根幹の法律を踏みにじりながら、議会制民主主義の確立を掲げて党首を続投する。これほどの「パロディ」(風刺劇)に国民が付いていけないのは当然だろう。

 橋下氏の挫折はやがて知事交代へと発展するであろうし、また小沢氏の居直りも「三日も続かない」のではないか。近日中に政党支持率の結果が発表され、小沢氏の評価が麻生氏を下回るようであれば、小沢氏の政治生命が終わる日も近い。国民はこの間、その時々の政治家の言動に惑わされて大きく判断を誤ってきた。だから最近では、「言動よりも人物」を重視する気持ちが次第に高まってきている。麻生氏がいかなる政策を打ち出しても支持率が上がらないのは、国民が「政策ではなく人物本位」で評価しているからである。

 同様に小沢氏がこれまで人気がなかったのは、田中・金丸金権政治の直系である小沢氏を「人物本位」で判断してきたからだ。それを「民主党という衣」に着替えて、イメージ・チェンジを図ろうとした矢先に、今回の公設秘書の逮捕・起訴が起こった。「やはり」というのが国民の実感であり、これを払拭するには「政治的道義」に訴えるほかはない。だが小沢氏はそれができる人物ではなかった。そういう人物を党首に選んだ民主党もまた、小沢氏と同様の評価を受けるであろう。

 小沢公設秘書の逮捕・起訴事件は、財界やマスメディアの推進する二大政党制の胡散臭さと本質を白日の下にさらした。麻生氏と小沢氏の最大の功績は、両氏が「政策でなく人物」でもって二大政党制の体質と限界を国民の目の前に明らかにしたことにある。(3月26日記)