政権交代は「薄皮の饅頭」(まんじゅう)、腐敗した「小沢餡子」(あんこ)が透けて見える、(民主党政権の内実、その2)

 23日に民主党小沢幹事長が「被疑者」として検察の事情聴取を受けた。同僚の刑事訴訟法の教授によると、「被疑者」と「参考人」とでは「まったく訳が違う」のだという。取り調べ人の黙秘権を告知したうえでの事情聴取だから、取り調べ調書に署名した小沢氏は、その内容については全面的に「刑事責任」を負うことを認めたことになるのである。

 小沢氏はまた直後の記者会見においても、4億円の土地購入資金は全部自分が積み立てたカネであり、その中に不正な資金はいっさい含まれていないと断言した。そして驚くべきことに、土地購入資金の出し入れなど政治資金の実務会計は全て秘書に任せていて、「自分は一切関知していない」と言明した。記者会見は政治家としての公式発言だから、小沢氏は国民に対してもその発言に対して「政治責任」をとらなくてはならなくなった。

 それにしても、今回の小沢氏に対する事情聴取は全ての面において異例極まりないものだ。政権与党の幹事長に対する事情聴取は、造船疑獄で収賄容疑に問われた自民党佐藤栄作幹事長(当時)以来だというし、それも極秘での取り調べではなく、マスメディアが殺到した「衆人環視」のもとでの事情聴取だった。

 このことの意味するものは、小沢氏の政治資金疑惑は、すでに本人にとっても検察にとっても「もはや隠すことができない一大政治事件」と化しているということだ。そして両者ともそのことを十分承知したうえで、それぞれ対応して行動しているように見える。言い換えれば、小沢政治資金疑惑はいまや単なる政治事件の域を超えて、国民すべてが裁判員として参加する「国民裁判」としての様相を強めているのだといえよう。

だから民主党の輿石幹事長代理や山岡国会対策委員長のいうように、「小沢幹事長のいうことを信じるので、これ以上言うことはない」とか、「この問題は司法の場のことであって、国会はもっぱら予算のことをやればよい」といったことにはならない。事態はすでに「国民裁判」に転化している以上、民主党は国民の審判を受けるに必要な資料を公開し、政権党としての説明責任を果たさなくてはならない。そうでなければ、次の選挙で民主党そのものが国民の審判を受けることになる。

それにしても今回の小沢政治資金疑惑は、自民党仕込みの「古典的スキャンダルそのもの」(利権汚職)ともいうべき性格のものだ。国民はその古色蒼然とした手口に呆れ、しかもそれを平然として誤魔化そうとする小沢氏本人や関係者の言動に絶倒している。まるで時代が田中金権内閣時代に「タイムスリップ」したような気分になり、語る言葉を失っている状況なのだ。

だがこの疑惑が生じているのは、疑いもなく自公政権から民主党へ「政権交代」が起こった21世紀の現在なのである。国民が戦後の利権政治体制に決別し、「自民党よ、さようなら」、「民主党よ、こんにちは」といった矢先の出来事なのだ。「政権交代」を演ずるはずだった民主党政権のイメージと、今回の「小沢スキャンダル」との間のあまりのギャップの大きさに、国民はいうべき言葉を失っているのである。

「腐敗した自民党饅頭」に飽きた国民は、「政権交代」という皮をかぶった「民主党饅頭」を一度食べてみようかと思った。だがその中の餡子(あんこ)は、自民党味の「小沢餡子」だった。それも「腐った肉饅頭の餡子」だった。国民はいったん口に入れたものの、異臭に驚いて慌てて吐き出したというのが率直な心境だろう。

私は西松建設スキャンダルの摘発が不発に終わり、自民党二階議員がまんまと逃げおおせたときから、小沢氏もまた見逃されたと思っていた。そして自民党に代わる「比較的清潔な保守政党」として、民主党を育てる方向に転じたのではないかと思っていた。だがここにきて、鳩山首相の贈与金脱税疑惑に加えて、小沢政治資金疑惑が国民全体の関心事になるようになると、このままで事態を放置することは、国全体の統治体制を危うくするものとの判断が浮上したものと思われる。

といって、民主党内の「小沢的要素」を一掃すれば、残るのは「事業仕分け」に熱中した新自由主義グループが支配権を握ることになる。国民が「自民党にさよなら」したのは、利権腐敗体質に嫌気をさしただけではなく、小泉構造改革という「劇薬」に命を奪われそうになって「身の危険」を感じたからだ。だから、仙石大臣やその一派に全権を委ねることは、国家の支配体制維持にとっても安心だというわけにはいかない。ここに支配体制のディレンマがあるというわけだ。(つづく)